『鷲の翼』より  Fコールリー著
杉原法子訳

 それからの16年間、イグナチオはイエズス会初代総長として、ローマにあって会員たちを指揮し、展望のきくローマの窓から混迷するヨーロッパ諸国やその遥か彼方を見渡していた。そして、世の聖職者や信徒たちの世俗化が教会を弱めていることに気づいたイグナチオは、その戦闘のためにしっかりした対策を打ち立てたのだった。この改革のために、説教とカトリック信仰についての簡単で飾らない解説こそ、ロヨラの第一の武器となった。

 また秘跡の重要性を説くこともそれと同様であった。大学などの学校における若い世代の教育は、イグナチオが最初に会の事業として計画したものではなかったが、時を待たずして、人々をキリストへと導く強力な手段となった。そしてまた、新大陸探検のこの時代にあって、新しく開かれた広大な海外宣教地は、この聖人の熱意を捕らえて放さなかった。彼は親友フランシスコ・ザビエルを遠くインドそして日本へと派遣し、また多くの会員がこれに倣って、異教の地に真理に燃えるたいまつを運んで行ったのである。イグナチオの率いるこの軍勢は、厳しい鍛錬を受けて機動力に富み、またすぐれた武器を備えていた。宗教改革が教会に真向こうから対立した16世紀の危機に直面して、ヨーロッパにおいてはプロテスタント勢力を敗走させ、また布教地にはキリストの旗を打ち立てる万軍の神の力強い部隊となったことは、歴史的な事実である。

 当然のことながらこのような大部隊には優れた指揮官が必要であった。偏見によるいくらかの批判もあるが、最初の司令官イグナチオは、愛情の代わりに恐れをもって統治する無慈悲な軍曹ではなかった。それとはまったく対照的に、温和で慈しみにあふれた指導者であって、生来、仲間たちに対する広い愛と、一人ひとりの個性を生かす特別な能力に恵まれていた。かれは従順を要求した。それはどんな組織体にあっても必要なものであるが、しかし、恐怖によって動かされる軍隊式の機械的応答ではなく、主であり、王である神の意志に、自らのそれを一致させる忠実な兵士の自発的な、愛に満ちた従順である。イグナチオはこのような従順をキリストの兄弟たちに求めた。こうして、彼は、ローマ公教会に対する反抗の広まっていくこの時代にあって、神の聖旨に従い、力強い信仰と、教皇と総長に対する従順を熱望する霊的な人々を鍛えていったのである。

 神は、他のいかなる手段にもまして『霊操』を通じ、イエズス会士の努力に報われた。「もし、1520年から1700年までのローマ・カトリック教を宗教として理解しようとするなら、『霊操』の本を勉強しなければならない」と言った人がいる。人間の心の深い理解と、その魂の浄化のために、人々をキリストに導きたいという熱い望みによって著されたこの書は、初期の会員たちをイグナチオに結び、たちまちのうちにすべての会員たちの指導の手引となった。しかしこの『霊操』は、単にイエズス会士のためばかりではなく、聖と俗とを問わず、あらゆる世界に属する人々のためのものである。秩序を失った多くの生命を再び秩序に呼び戻し、カトリック者としての信仰生活を鼓舞し、また、人々の足を聖性の道にしっかりと立たせるこの『霊操』の効果は秘跡的とさえいえる。ある人の過去がたとえどれほど悪徳に汚されたものであっても、その人のうちに謙虚さを学ぼうという意志さえあるならば、『霊操』のうちにある根元的な真理と,それらを繋ぐ論理の鎖を避けて通ることはできないだろう。イグナチオは人間の心をこれらすべての真理によって刺激し、黙想者をひざまずいて祈り考察させ、彼らの魂の深奥を照らす神の恵みの光へと導くのである。キリストを知り、キリストを深く愛し、キリストにより近く従い、彼と共に苦しむ、そしてついにはキリストと共に君臨すること。これこそ、イグナチオがすべての人に望んだ到達点なのであった。教皇や司教たち、司祭や王侯たち、また信徒たち、霊操を体験するあらゆる人々は、新たに出会ったキリストの愛に深く揺さぶられ、その黙想の終わりには、瞳を輝かせ胸を鼓動に高ぶらせ、あふれるばかりに受けた賜を、他者にも分かち与えようという固い決意を抱くのである。以来今日に至るまで、神の恵みによって、世界はこの宝を分かち合ってきた。

 イグナチオにもその生涯の終わりが近づいていた。1554年、彼は急激に老い、始終病に苦しむようになった。彼は自分の任務を若く活動的な人に譲ることを決意し、その年10月にヒエロニモ・ナダル神父を総長代理として任命した。後に一時健康を回復し、新たな意欲をもって仕事に復帰したが、体力の衰えを察知したイグナチオは、1556年、ボランコとナダル、そしてマドリッドの3人の神父に修道会の運営を任せた。これをもって、勇敢な騎士であり情熱の聖徒であったイグナチオは、戦う教会の最前線に立って大部隊を率いる精鋭かつ豪壮な指導者としての地上での任務に終止符を打ったのである。修道会はその基礎を固めると共に、急速に発展し、その広範囲にわたる前線からは、日々勝利の知らせが届いていたが、今や力衰えた司令官はその指揮権を譲り、長かった戦役を離れて、王であるキリストのもとに帰っていく時を迎えようとしていた。

 死は突然訪れた。1556年7月、イグナチオは発熱して病床に伏し、医師たちを驚かせた。7月30日、イグナチオは時の教皇パウロ4世に、最期を迎えたイエズス会総長のための祝福を求めるが、死がそれほど迫っていることが分からなかったボランコ神父は、バチカンに行くことを延ばし、スペイン管区に宛てたある重要な手紙を書いていた。イグナチオは静かにその夜を過ごしたが、翌朝太陽が東の空を染め始めた頃病状が悪化した。ボランコが教皇のもとへ駆け、祝福をもらって急ぎ戻ってくると、その帰りを待っていたかのように、イグナチオは間もなく静かにこの世を去って行ったのである。

年  譜
 1491年      スペイン、アスペイチアに生まれる
 1521年5月20日 パンプローナで負傷
 1534年8月15日 パリのモン・マルトルで同志と最初の誓願
 1537年6月24日 イタリア、ベニスにおいて司祭叙階
 1540年9月27日 教皇パウロ3世による修道会としての認可
 1556年7月31日 ローマにて帰天
 1609年7月27日 教皇パウロ5世により列福
 1622年3月12日 教皇グレゴリオ15世により列聖
 1922年7月25日 教皇ピオ11世により、黙想の保護者として宣言される。