『鷲の翼』より  Fコールリー著
杉原法子訳

 1522年、城を出たイグナチオは、ろばに乗ってバルセロナに近いモンセラットの聖母の教会に向かった。彼はそこで、キリストと聖母に生涯を捧げて、祭壇に軍刀と短剣とを永遠に献じたのである。それから翌年まで、イグナチオはそこに近いマンレサにとどまって、施しを乞い、長時間を祈りに費やし、身体をむち打つ苦行の生活に、おそるべき厳格さをもって自らを従わせた。イグナチオの内的生活は、マンレサにおけるこの数か月によるところが大きい。彼はここにおいて『霊操』を書き始めている。この本は、現代の教会が最も広く用いる最も優れた黙想指導書である。ザビエルはこの本を称して、「そこに書かれた文字の数よりも多くに人々を回心させた」と、言ったほどである。

 当時の多くのカトリック教徒がしたように、イグナチオもまた、過去の罪の償いとして聖地への巡礼を思い立った。1523年、教皇の許可を得て、ベニスからパレスチナに渡ったイグナチオは、そこで生涯聖地にとどまり、異教徒の回心のために尽くすことを決心したが、この決意は神の摂理のうちに実行に至らなかった。それはトルコ人の支配下にある聖地で、キリスト教徒の受ける気概をよく知っていた当地のフランシスコ会士たちが、親切に、しかし強硬に彼をヨーロッパに送り返したからである。

 神への奉仕を心に固く誓っていたイグナチオは、次に、人々の魂を救うためにのみ働きたいと願う使徒的精神を持った同志を募ることを考えた。しかしその前に、学問の武器を身にまとう必要に気づいた彼は、バルセロナで、後にアルカラとサラマンカにおいて勉強した。イグナチオは自分よりもずっと若い学生たちと机を並べ、単調な暗記作業にも耐えて学業に身を入れたが、楽しみや慰めは少なかった。加えて、スペインの宗教裁判所からは異端の誤解を受け、そこで自分の心に描く共同体を組織することは許されないと判断したイグナチオは、ついに1528年、わずかの本とノートをろばの背に乗せて、パリに向かってたびだったのである。フランスでは名高いパリ大学に学び、哲学と神学の過程を修めるかたわら、イグナチオと将来を共にする聡明な六人の同志を得た。彼らは『霊操』が結んだ最初の果実であった。

 1538年8月15日、七人はそろって清貧と貞潔、そして聖地への巡礼を果たすという誓願を立てたが、新しく修道会を創立する遺志は、まだはっきりとは芽生えていなかった。イグナチオが後日語ったところによると、七人はその日異教地での布教を目指し、エルサレムに一緒に旅をすることを誓ったのであったという。しかしながら、彼らは、その大望が実現できなかった場合、自らを教皇に委ねるという条件にも同意していた。イエズス会の礎となった七人の同志の名前は次の通りである。すなわち、この共同体の長であるイグナチオ・ロヨラ、彼の最も優れた同志フランシスコ・ザビエル、最初の親友ペトロ・ファーベル、後にトリエント公会議の輝く光となるヤコボ・ライネスとアルフォンソ・サルメロン、イグナチオに救われた一文無しの学生ニコラス・ボバディラ、後に故郷ポルトガルの最初の管区長として働いたシモン・ロドリゲス。そして翌1535年、イグナチオが一時スペインに帰国している間、ペトロ・ファーベルはさらに3人の学生、ヨハネ・コデュールとクロード・ルジェ、そしてパスカーズ・ブロエを仲間として迎えている。彼らもイエズス会士としての適性を備えた青年であった。

 イグナチオの9人の同志は、学業を終えるとパリを発ち、二か月の旅の末、1537年1月にベニスでイグナチオと落ち合った。時に、ベニスとトルコの間に戦争がはじまり、パレスチナへの出帆が不可能になったため、彼らは町の広場で説教したり、病院訪問などの活動を始めた。6月に9人のすべてが叙階されると、彼らはその司牧活動をイタリア中央北部の町々へと拡大した。その年の9月には、聖地で働くという望みが全く絶たれてしまったために、同志はビチェンツァに再会し、教皇に自らの奉仕を捧げるというもう一つの選択によって誓願を生きる決定をしたのである。そこで、イグナチオとファーベル、そしてライネスの3人がローマに向かい、他の同志はイタリアの町々で奉仕活動を開始し、豊かな収穫をもたらした。

 洞察力にたけていた教皇パウロ三世は、3人を快く迎え、早速ファーベルとライネスは、サピエンツァ大学で教鞭をとるよう任命された。一方、イグナチオは乏しいイタリア語を駆使し、彼の武器である『霊操』を用いて、毎日街頭に立って説教を続けた。

 イグナチオと同志は、どこにあってもその連日の説教、平易な要理教授、何よりも雄弁な愛徳の業、無私の熱誠、そして秘跡への絶え間ない勧誘、また貧しい人々への奉仕の実践などにより、人々の非常な好意、を引き寄せたので、イグナチオは同志と修道会組織を結成する考えに及び、彼らをローマに呼び集めて意見を求めたのである。全員がこれに賛同した。イグナチオは長い祈りを捧げ、兄弟たちと相談を重ねた末、現在のイエズス会として知られているこの新しい修道会の概要を記す文書を書き上げた。この文書に深い感銘を受けた教皇パウロ三世は、これに承認を与えていった。「ここに神の指がある」と。

 一年を経た1540年9月27日、教皇はその教書『レジミニ・ミリタンティス・エクレジェ』(Regimini Militantis Ecclesiae)に署名し、これによってイエズス会は修道会として公に認可を受けたのである。この署名によって、ローマ教皇聖座は、神の摂理のもとに、ヨーロッパにあっては教会の最前線に立って戦い、また異教の国々に遠征しては神の民を集め、そしてキリストの代理者である教皇を忠実に守る兵隊を徴収したのである。

(次回に続く)