2019年10月19日(土) に行われた半日黙想会の前に、ヨセフホールで英神父様に頂いた御講話の内容を書き起こしました。
それではですね
洗礼を受けた方々ということなので
信仰生活をどう生きていくのかということについて
少し参考になる話をしたいと思います
結構前のことにはなりますけど
教皇フランシスコが喜びに喜べという使徒的勧告の本を出版したんですね
これは現代世界における聖性ですね、聖性、聖なる性格
すべての信者は聖なるものになるように呼びかけられている
特別な人が聖人になるわけではなくて、みんなそうなんだ
(7番)
私は神の民の忍耐の中に聖性を見ることが好きです
あふれるほどの愛をそそいで子育てにあたる親
家族の生活の糧のために働く人
笑顔を絶やさない、病にあう人や高齢の修道者です
日々歩み続ける根気の道に
私は戦う教会の聖性を見ます
それは大抵、私達のすぐ近くで神の現存を映し出す身近な聖性です
別の言い方をすれば、直訳ですが、中産階級の聖性です
これは普通の信者さんが聖性に招かれているということなんですが
こういう本も最近出ましたから
もし興味があったら読まれたらいいのではないかなと思います
聖性ということでちょっと考えて言うならば
まさしく洗礼を受けたときから
私達は聖なるものになるように呼ばれている
私達はどのように聖なる道に呼ばれているのかというと
やっぱり段階があるんですね
急に私達が聖人になるわけではなくて
一歩一歩ですね
神様との交わりを深めながら
そして多くの場合はやっぱり年月を少しずつかけながら
私達は神との親しみを深めながら
聖性を養うというか身につけていく
だから今日はそういうことについて、
過去の聖人たちが様々な形でどういう旅路で、
神様との関わりを深めてきたかということについて話したいと思います
多くの人がいろんな紹介をしているのですが、
その道は三段階で言われていることもある
もう少し長めのもので言われているものは五段階です
これを使って信仰の道というか聖性が深まる道を説明したいと思います
モデルになるのは十字架の聖ヨハネという人なんですけど、
カルメル会系の人で男子カルメル会の改革者なんですが、
十字架のヨハネやその同じ時代にいたアビラのテレジアという人が、
近代カトリックの霊性のいわゆる頂点と言われているんですが、
その十字架のヨハネの考え方を使って少し説明したいと思います
十字架の聖ヨハネ入門 愛するための自由という本があるんですが、
ここにちょっと書いてある、興味あったら後から見てもらったらいい
他にもルース・バローズというカルメル会のシスターなんですが、
すごいいい本をたくさん書いていて、
「Guidelines For Mystical Prayer」
というものを参考文献として持ってきました
ルース・バローズについては残念ですが日本語訳が未だに出ていません
今日は聖性の段階を5段階で説明します
第一段階は「神との出会い」
ある時理由もわからないけど神様がある霊魂を呼ばれるんですね
皆様は全員呼ばれたから洗礼を受けているんですけど
それがなぜかは分からないですけど
なんでその人が呼ばれるのかは分からないですけど
ある呼びかけを聞く人がいるわけです
その呼びかけに一度答えだすとこの聖性の旅路が始まる
信仰への旅路、神様との交わりの道のりがスタートするわけです
最初はこの第一段階で神との出会い、
特徴は何かというと慰めが動くということですね
神に向かってその霊魂に特別に慰めと励まし力づけを与えてくれる
しかも神様はわざわざ丁寧にその人に合わせて与えてくれる、
これは神様の心遣いなんですが、皆さんもある程度経験あるでしょう
ミサにでるたびに涙が出るとか
あるいはミサに出るたびに心が和むとか
講座に出るたびに励まされて一週間をより充実されるとか
だいたい出だしは神様は多めに慰めをくださる
つまりは神に向かって歩めるように
しかも私達の口に合うように
赤ちゃんにお母さんが離乳食を与えるように
消化しやすいように砕いたご飯の取り分けをくださるんですね
だから成人洗礼を受けたときやその直後、
あるいは幼児洗礼の方もあるとき呼ばれる
年齢も分からない子のときに呼ばれる人もいれば
大人になってからその呼びかけが始まる人がいる
それは分からない、神様の計画は分からない
とにかくその呼びかけに応えて歩きだすと
先程行ったように恵みを多めに与えてくださる
人間の戸口に神様が合わせてきてくださる
神様がわざわざ私達に合わせてくださる
神様そのものではなく、神様からくる恵みを与えてくださるので、
神様そのものと交わっているわけではなく、
神様が特別噛み砕いたお恵みを分かりやすく与えてくださる
神様そのものではまだないんですけど
そういう時期が始まって洗礼を受けるなり、そういう道を歩みだす
第一段階は特別のお恵みの時期なんですが、いつか終わる
どのくらいの期間かは神様がその人に合わせて考えてくださる
比較的長く続く人もいれば短期間の人もいる
そろそろいいなと思ったら第二段階に導かれる
第二段階が何かといいますと、これは十字架のヨハネの言葉なんですけど、
「感覚の暗夜」に導かれることが多い
第二段階にだいたい霊魂は呼ばれる
感覚の暗夜が何かというと慰めがなくなる
もともと下さっていた甘い甘い慰めがなくなる
信仰を深めるように呼びかけられる
典型的なのはあれだけ恵みを頂いていたミサに行っても
お祈りが好きで黙想会に行っても
なんかこう溢れるばかりの恵みをいただけない
何を通したって第一段階は恵みがあった
人と喋ったって教会に来ただけで慰めがあった
第二段階に入るとそういう慰めが取られる
なぜそういうことになるかというと、
信仰が成長するように、
その段階を潜らせるのがごくごく普通のことと言われている
ルース・バローズも書いているが、
多くの人はここで歩むのをやめてしまう
教会に来なくなる
一時熱心だったけど恵みがなくなったからもういいかと
第二段階で大半の人は歩むことをやめてしまう
やめたところで終わりだということです
信仰が深まったり、聖性の道は
つまり聖性ということは歩み続ける中でこそ深まる
大体の人はやめてしまう
教会に行ったり祈ったり
大事なことはこの道を通らなければ聖性は深まらない、神との道
その人の霊魂を神様が整えだす
めぐみばかり頂いただけでは霊魂は成長しない
神様は甘く見ている、第一段階では
つまり私達の霊魂には欠点が多くあるんですよ、
歪みとか囚われとか
それをわかっていて、
相手に通路に合わせて恵みを与えてくださっているので、
そろそろ自分の霊魂を整えたりする段階がはじまるのが第二段階
本当のところここからがスタート
それも単なるスタート
ここでだいたい教会に来なくなる、
お祈りをやめてしまう
ルース・バローズも残念だ、と書いている
祈りの中で暗夜を体験する人もいれば、
色んな所で第一段階であれほど毎日にこにこ
楽しく神の恵みの中で歩めていたことが、
結局何も変わっていないというか
人間の霊魂って大して成長しないので
同じ問題、同じ苦しみを受ける
でもそれに対してなんの対処もしていないわけですから、
そこからどう自分を変えていくかとか、
自分の生き方を変えていくかということを
真剣に考えるときが始まる
だから簡単に言えば慰めがなくなるという、
それだけのことで大したことではないですが、
いろんな形で暗夜が来るのですが、
教会の中でありがちなのは、
トーマス・グリーンという人が書いているのですが、
典型的なのは教会に来だして、
信者につまずくか神父につまずくことで来なくなる
ただの人間なんですよ、神父もシスターも本当のところは
色んな人がいてつまずくことがある
でも神様とは関係ないじゃないですか
人間は悪いのは分かっていること、人間は罪人ですよ
神様とあなたの関係を深めるのが聖性を生きるという、
信仰を深めるということです
ここから信仰の祈りを信仰の生き方を欲し深めていかなければならない
私も入門講座をしているから、
この位置に入る直前の人の世話ばかりしているので、
本当はここでのサポートが必要なんですね
突然いろんなことがくるから慌ててしまって
その人の霊魂を神様が深めてくださるために、
神様のちょっとしたトレーニングの期間がやっと始まったということ
ひとつひとつその人の霊魂が成長するために、
必要なプログラムを神様はひとりひとりに丁寧に与えている
慰めもくるけど試練も与えて、本当に信仰が深まるように、
もうちょっとただただ単に恵みを頂いてよかったなと思うだけじゃない
深い信仰を養うために、この第二段階は不可欠なんですよね
この期間の長さはどのくらいですか?ということについては、
これは十字架のヨハネは、霊魂に合わせて、と言っています
弱い霊魂には弱い苦しみを長く与える
強い霊魂には強い苦しみを短期間与える
ちゃんと神様が測ってその人の成長に合わせてくださる
それが一般的な感覚の暗夜ということ
だから祈り方を変えなければならないし、
あるいはここから本当にどう祈っていくのかとか
自分の祈り方とか、聖書の祈り方とか、生活の仕方
まだまだその日常生活、信仰生活でやることがあるわけですよ
例えば毎日のお祈りをするとか
信仰の中で愛をどう生きるのか
愛を試されるような出来事が起きるのだから
それをひとつひとつ受け止めて
日常生活の中でも日曜にミサに来るとか祈りをするとか
そういうことを丁寧にやらなければならない
十字架のヨハネに言わせると、
この時期は比較的長く続くと言っている
そんなに短くない、ということです
必要なときにはちゃんと慰めや助けを与えてくれることは当然あります
まだまだ力も弱いので
ある程度自分自身を清めたり自分の欠点をしっかり見つめたり
そういうことをしっかりできて、
祈りとか身についてきたり信仰生活が身についてきたなって感じになってきたら
第三段階に神様は導かれる
第三段階は「神と共に」
ようやく神様と歩調を合わせて歩くやり方が分かってくる
第一段階は人間に合わせてくださっているだけで神様が寄り添って下さっている
第三段階は私達が神様に寄り添って歩んでいく生き方がだんだん分かってくる
割とこの時が充実してくる、本当の意味で信仰生活が充実してくる
ルースバローズも言っているが、
第一段階は神様から頂いた慰めを味わうときだが
第三段階は神様そのものと一致する恵みを与えてくださる
それは霊魂の奥底まで来る感じだから、
第一段階の慰めとは比較にならないくらい深いものです
皆さんにはそのぐらいの体験をしてもらいたいと個人的には思う
そんなに恒常的に与えられるということでもない
まだまだ人間の業とか囚われとかあるんですけど
ようやく神様の生き方に合わせて行くことができることに
その深いところ、心の奥底、体の奥底に神様が時々入ってくださる
簡単に言うとこの世のどのような宝よりも素晴らしいことは間違いない
皆さんもこの世の楽しみって色々あるじゃないですか
テレビ見たりコンサート行ったり
霊魂の表面ですよ、そういう喜びは
霊魂の奥底まで来る喜びは神様以外からは与えられない
そういうお恵みは第三段階くらいから徐々に波長があってくる感じ
波長が合って初めて神の恵みは霊魂の奥深いところまで降りてくるので
その喜びというものは何物にも代えがたいものとなります
残念ながらカトリック信者で
こんなに素晴らしい宝があるのに、
それを実感している人がそんなに多くないことは残念だと思うことの一つです
つまり神様には莫大な宝があるんですよ
私達は上澄みを取って喜んでるだけで、
本体のお恵みまで味わえるようになったら
まさしくプライスレスですよ、値段をつけられない
こういったものが分かりだすのが第三段階くらいからですね
神様と歩調はかなり合わせられるから
仕事なんかもうまくいくことも非常に多い
やはりそこに神様の力が働いてくるので
職場においてとか家庭においてとか
前よりダイナミックに神の力が働きだすので
自分の能力というか持っているものがすごく生かされる
聖霊の力によって
人によっては大きな奉仕をしたり
大きな仕事をされたりする人が
当然恵みの中で出てくる
大きい小さいの問題ではないけど、
やはりなんと言っても生活そのものが充実してくる
本当にこう神様と共に歩む良さ
第一段階はちょっと味見をしているだけなんです
第三段階は生きることができるんです
生きていけるんです、
神の御旨を
それがどれほどの喜びで
どれほどありがたいものなのか
でもこれはだいたい時間がかかります
そんなにすぐに一年ほどでぱっと見えてくるってことはありえない
よっぽど天才的な人とかは生得的にそうなんでしょうけど
普通は時間がかかります
やっぱり毎日の祈りや苦しみを乗り越えたり受け止めたり
そういうことを繰り返しながら愛の実践を繰り返す中で
そういうことが徐々に身についていく
でもまだ人間の自我と神の意志は当然ずれている
だから共に歩むこともあるし歩んでいないことも多い
あとはまだ神様は霊魂の弱いところをゆるしてくださっている
弱さがあってもそうやってともに歩むことができるし
どういう表現をすればよいかわかりませんが、
本当のすごい清めの段階までは容赦してくださっている
そういう弱さを認めておられるしまだまだ弱いです
執着もあるし囚われもまだまだあるけれども
だいぶそういう面が剥がれているからいいんです
でも自我の根は深いですから
深いものが神様に反抗する力になる
でも神様の道具として働けるような感じにはなってきている
どれだけ生きるかにもよりますが、
第三段階もまあまあ長いかなと思います
神様がそろそろこの霊魂はいいかなと
さらにご自分に深く一致する、
さらに聖性を深められるんじゃないかと思われる霊魂は
第四段階に導かれる
第四段階は何かというと
十字架のヨハネの言葉によると「霊の暗夜」に導かれる
これと思われる霊魂をですね
言葉にするとものすごく苦しい
第四段階の苦しみと比べれば第二段階の苦しみは屁でもない
霊魂の表面について掃除をしているくらいのものでしかない
霊の暗夜は人間の霊魂の奥底の掃除
霊魂の一番深いところにある人間の自我を清める、焼き尽くす
一言で言うと苦しい、ものすごく苦しい
ある霊魂はそこまで導かれる
みなさんも知っているかもしれませんけど、
ヘンリ・ナウエンというオランダ人がいて、
アメリカでカトリックの神父になって、
文才があったので何冊もの本を書いて、
割と有名なのは「放蕩息子の帰還」という本があります
もともと優秀でハーバード大学に行って教えたりしていたんですけど、
結局そういう道は合わない、ということで、
ラルシュという知的なハンディを持つ人と暮らす共同体に最終的に行った
ジャン・バ二エという、最近なくなり亡くなりましたけど、この人が聖人レベル、
このジャン・バニエの勧めもあって、
ヘンリ・ナウエンはカナダのトロントのデイブレイクという、
ラルシュ共同体のアシスタントとして入って、
やっと安住の地を迎えたと思ったら、
そこである親友との友情関係が破綻したことをきっかけとして暗夜に入った
二年位だったかなと
まあその暗夜でのことを書く必要があるだろうということで、
心の奥の暗夜という本を書いた
第五段階に入ってから書かれた本です
それを抜けて書かれた本が放蕩息子の帰還だったりするのですが、
前のものより抜群に良いです
十字架のヨハネとか凄まじい
彼はカルメル会の改革をやったんです
改革者の伝記を読んでると思いますけど、
何が大変かと言うと、旧勢力がいることです
新しい修道会を創立するのは簡単なんです
アビラのテレジアは女子修道会で、十字架のヨハネは男子修道会ですけど、
かなり堕落していたので厳しくしようとして改革しようとしていたんですね
でも旧勢力にメタメタに二人共やられたんですね
十字架のヨハネがどうなったかと言うと、
旧勢力の修道院の牢獄に9ヶ月間入れられていた
それが彼の暗夜と言われている
霊の暗夜を体験する人は信じられない出来事が起こることが多い
自分の修道院の牢獄に幽閉されるとか
あるいは神学者だったらバチカンから教授資格を剥奪されるとか
キリシタン時代だったらまさしく殉教の危険にあうとか
逮捕されて鞭打たれて拷問を受けたり
霊の暗夜に純粋な霊魂で体験することは外的に体験する人は、
理不尽で信じられない苦しみの中に投げ込まれることが非常に多い
それだけではなく、時代の流れとか、
その霊魂に合わせて清めがある道を通らせるから、
凄まじいこともわりかしある
リジューのテレーズ、小さき花のテレジアですが、
彼女は亡くなる前に霊の暗夜を体験した
自分の心のなかに無神論者の考えしか残っていないと書いている
天国が信じられない、神も信じられない、とはっきりと書いている
準備が十分にできている霊魂にしか耐えられないから、
準備ができている霊魂だけをこの段階に入れる
そこに入った霊魂は誰も助けられない
神様がそこに置いている、清めが終了するまで
他にもある修道会の創立者とか、自分が創った修道会に追放される
すさまじいことが起きる
私達のような普通のレベルで起きるようなことは、
だいたい二つくらいで、
人間関係で信じられないことが起きるとか、
大きな病気にかかる
家族関係が無茶苦茶になるとか、
とにかくどうしようもないぐちゃぐちゃ放り込まれるとか、
霊の暗夜は様々です
十字架のヨハネが言っているのは、さっき言ったように、
強い霊魂には強いものを短期間与える、
弱い霊魂は耐えきれないから弱めのものを長期間与える
これはよく分からないですけど、神の業なんです
つまり神様が霊魂を徹底的に清めるためなので、
人間的に言うとけしからんことだし、
訴えると言ったらもちろん裁判に訴えてもいいんですけど、
神様が霊魂のためにやっている面もあるので、
大変な苦しみにはなるんですけど
乗り越えたら第五段階に行ける
この第五段階が何かと言うと「神との一致」です
人間の深いところのエゴが焼き尽くされて、神様が霊魂の中に24時間住まわれている
神と共にというのは神と自分は別々なんですけど、
最後は神と恒常的に一致する
特に何が一致するかと言うと意志の道なんですね
自分がこうしようとしていることと、
神が望むことが一致する
だから葛藤がないんです、
私達は葛藤だらけでしょ、
神様はこう考えるけど私達はこうしたいとか
葛藤があるのは普通なんです
第五段階に行くと完全に一致しているから、
自分が望むことが神の望みなんです
寸分の狂いもない状況になって
でもここまで来ると神秘的な体験は減る
特別な恵みや特別な照らしはむしろ
最後のときは神様の特別な恵みがあるんですけど、
静かな喜びがずっと続いている
悲しいことがない、葛藤もない、
本当の深い深い喜びがずっと続いていて、
神に反することができない、
神様に一致しているから
自分の望むことが常に神の望みにかなっているので、
私達はここまでいくことができる
そこまで行った人がこの道のりを私達に残してくれている
本当言えば、私達の聖性とか信仰の深まりは
できればここまで第五段階まで来られたらいいのではないかと思います
ただ相当長いプロセスになる
いつでもやめることができる、
ここまででいいやと思う人には神様は無理強いしませんから
だから皆さんが望むなら第五段階まで当然すべての人が行くことができる
でも地道な日々の信仰を深めたり、
積み重ねを生涯続けていく必要性はある
僕が勉強していた頃に大先輩の神父さんに聞いたことがあります、
「第五段階まで行く人はどのくらいいますか?」と聞いたら、
「ほんの一握り」と言っていた
そんな簡単なことではないけれど、
神様は皆さんを招いておられる、
だからそれに応えていけばいいと思う
第五段階の人は身近に誰がいるか、
この前の7月31日にイエズス会の総長のソーサ神父さんが来られたんですけど、
1万7千人くらいいる全世界のイエズス会を束ねているのですが、
前の総長がニコライ神父さんと言うんですね
その方は日本で働いていた神父さんで、
上智大学の神学部で働いていたり管区長をしていたりした
ソーサ神父さんは彼に選ばれて、彼は引退して今はロヨラハウスにいるんですが、
どうみても五段階ですね、完全に神様と一致しています、びっくりするくらい
本当に存在が神とずれていない
ものすごく苦しまれたかと思います
総会長ということで
イエズス会を束ねていたということで
多分それが第四段階だったんだと思います
今はもう働ける状況ではなく、
介護が必要な状況ですが、
でもどう見ても神と一致している、
存在がぴったり神と一致している
人間でも到達できる人がいるんだなと強く感じています
これは典型的な五段階ですけど
もっというと普通なんですが、
良いときもあれば悪いときもあるということです
慰めがあって調子がいいときもあるし、
信仰のスランプがあるときもある、繰り返すんですよね
人によって全く違うから、やっぱり生涯をかけて、
自分のために神様が清めのために与えてくださったものだと思って、
なんとか乗り越えていけばよいですよね
ルーズバローズが言っていたんですけど、
第三段階の人に言うんですけど、
神の慰めなんか求めるなと、
つまり祈ってて気持ちが良いとか何か恵みがあるというのは妨げだから、
そこに囚われていたら次には行けませんよと言っている
アビラのテレジアも同じことを言っている
ここまで来たら慰めがあるということ自身はそこまで重要なことではない
神の御旨に一致していることがもっと重要なことですから
第一段階であればいいんですよ
それは神の莫大な恵みの上澄みをちょっとの話なんですよ
神様の莫大な恵みをどう生きていくか、
一生かける価値がありますよ、どう考えても
だからチャレンジしてもらったらいいと思う
マザーテレサの話を少しします
マザーテレサの場合は二~五段階が同時並行なんですよね
マザーテレサの日記が10年くらい前に発表されて明らかになったのですが、
彼女は50年間暗夜だった
もともと裕福な修道院に居たけど、
神の呼びかけを聞いて、スラム街に入った
それでもともと居た修道会を出て、
活動を始めたときから実は暗夜に入っていた
50年間暗夜だった
彼女の活動をしているときを通して殆どが暗夜だった
神の恵みを全く感じなかった、神様から愛されている実感が50年間ゼロですよ
特に暗夜に入った頃について、
彼女から霊的指導者に送った手紙が保管されて残っていた
マザーテレサは物を持たない生活だったから
霊的指導者からもらった手紙は捨てていた
これは苦しみに満ちた手紙ですよ
神様の愛が感じられないのがどれだけ苦しいか、
ということが赤裸々に書かれた手紙が残っている
信じられないことですよね、
あれだけレベルが高い人が50年間暗夜だったのに関わらず昼間はあの活動をしていた
分からないですよね
でも50年間暗夜だった人はたくさんいる
十字架のパウロという御受難会の創立者、
クロード・ド・ラ・コロンビエールと言う人もそう、
割とそういう人も多い
彼女の心のなかに神の愛はなかったのですが、
例えばこの部屋に彼女が入ってきたとしたら、
この部屋は神の愛に包まれるんですよ、
存在そのものが神の愛とコネクトしていて、
それはもうレベルがぜんぜん違う
だからある意味第五段階でもあるわけですよ
とにかくその存在感が、神の愛を周りに放射しているという存在でした
晩年になればなるほど
だけれども彼女の心の中はずっと暗夜で
ずっと神の愛は空っぽで空白だった
そのように体験する人もいるからまったく人によるんです
典型的には五段階だけど人によっては違う
だからまあさまざまということです
少しですね聖書を読んでもらいたいと思います
マタイによる福音書3章16節です、
イエス様の洗礼の話です
~
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
~
天が急に開くということ自身が別世界で、神の世界が出てくるということ
そこから聖霊が降ってくる、これはもう特別な体験ですよね
そのときに彼は悟るわけです
愛する子だということです
心に適うというのはちょっと硬い訳ですが、
普通に読むとお気に入りの息子だということです
つまり神の無条件の愛をイエスが洗礼を受けることによって、
イエス様自身が深く深く感じたということですよね
皆様もちょっとは体験あるでしょう
皆様も洗礼の前後の時にですね、ここまですごくはないかも知れませんが、
神の恵みを、神様に愛されているとか、守られているとか、導かれているとか、
ということを感じられたと思うんですけど、
イエス様のこの体験はイエス様の存在を貫いているわけですよ
神の恵みに全身全霊を傾けられて、
それは神の愛の体験だというものです
言ってみれば私達クリスチャンはこの体験を追体験するしかないんです
イエス様ほど深くはできないが基本はこれなんです
洗礼を受けた人間が何かというと、
神の愛が全身全霊を貫いて、
天が開くというんですが、
心理的に言えば心の壁が取り去ると言うか、心の殻が割れて、
神の恵みで自分の心が浸水する
でもこの恵みに私達は癒やされているんです
だんだん分かってくる
最終的には霊魂の底まで神の愛が注がれるんですけど
私達には自我の防御がありますから中々突破しない、神の恵みが
上から降ってきても中に入ってこない、ダダ漏れになっている
でもイエス様は神の側だからということもありますが、
一瞬にして神の愛そのもの、聖霊が全部入ってきている
この体験に私達は向かっている
この体験をちょっとした体験を追体験しているんです、いろんな形で
少なくとも私達は更に深い体験に招かれている
この体験をさらに深く、
だけど私達は急にここまで到達できないから、
周りの恵みに感謝したりする、働いている恵みとか、
洗礼を受けてよかったなという恵みもあると思うので、
そういうものを振り返ってこられたら良いと思います
急にこんなところには到達できないけど、
でもその人なりに神様はちゃんと合わせて神の愛を注いでくださっている
そこをまずはしっかり受け止めて、
下さっている神様が、洗礼を受けてから、あるいはその前から、
実は莫大な恵みを下さっているということをしっかりと意識化するといいと思う
でもイエス様はそこですぐに宣教には行かないで、
マタイによる福音書4章1節から
~
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
~
荒野に導かれるんですよ
聖霊に導かれて行ったのだから間違って行ったのではない
霊に導かれて荒野に入って行った
荒野というのは暗夜のこと
誰しも暗夜を送らないといけない
荒野でこそ悪霊の誘惑を受ける
自分との戦いですよ
自分の中の囚われとか、自分の中のエゴとか見つめて、
あるいはその誘惑を受けながら、それに負けないで、
進んでいかなければならない
皆さんも大なり小なり暗夜と言うか荒野の体験をする
それに振り回されたらだめなんですよね
イエス様みたいにそれを退けて神様との関係を深めていく、
恵みの体験と荒野の体験をイエス様もされたのだから、
私達も両方繰り返しながら信仰を深めていくということですね
恵みの体験と荒野の体験の両方を見て、
荒野に対処しなければならない、
振り回されているのではなく、
神の恵みがどれだけあるのかということを
しっかり振り返っていただきたい
(英神父様がご紹介くださった本)
この文書を掲載の上で許可をいただきました。
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