教会の典礼歴は12月1日から待降節に入り、新しい年を迎えました。待降節を英語で「アドベント」と言いますが、
元はラテン語で、「到来」を意味します。待降節は神の御子の来臨であるクリスマスを準備する期間であり、また同時に、終末におけるキリストの第二の来臨へと心を向ける待望の期間でもあります。この意味で、待降節は愛と喜びに包まれた恵みの時といえるでしょう。
待降節第2主日 マタイによる福音3・1-12
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言イザヤによってこう言われている
人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道をまっすぐ
にせよ』」
ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に川の帯を締め、イナゴとの三つを食べ物と
していた。そこで、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに
来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを
見て、こう言った。「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、誰が教え
たのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと
思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでもアブラハムの子たち
を作り出すことがお出来になる。斧はすでに木の根元に置かれている。よい
実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる。私は、悔い改めに導
くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後からくる方は、わ
たしよりも優れておられる。私は、その履物をお脱がせする値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を
もって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えるこ
とのない火で焼き払われる。」
メシアの到来を預言し続けた旧約時代の最後の預言者として洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは「荒れ野」で声を上げます。「荒れ野」は生きるために厳しい場所ですが、神との出会いの場でもあります。エリヤと同じ服装「毛衣と革の帯」を来て、「いなごと野蜜を食物としていた」とは、荒れ野の中でほとんど断食のような生活をしていたようです。洗礼者ヨハネは、「天の国が近づいた」から、現実に目を向け、自分の生き方を見直すよう、「回心」を呼びかけます。救われるために必要なことは「悔い改めすなわち回心」でした。「自分たちはアブラハムの子孫だ」という誇りや安心感は、神の裁きの前では何の役にも立たない。すべての人が今、回心しなければならない。逆に、どんな人でも今、回心すれば救いにあずかれる、という希望のメッセージにもなりました。その回心のしるしが「洗礼」だったのです。また、同時に大切なことは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと「良い実を結ぶこと」です。洗礼者ヨハネが求めたことは、具体的な生活の改善で、自分の置かれた生活の場の中で、愛と正義を行うことでした。
ヨハネの授ける洗礼は「水」によるものでしたが、「後から来る方」は、聖霊と火で洗礼をお授けになる」と言います。この洗礼はもはや回心のためではなく、人を救うためのものです。「聖霊」は生かし、「火」は焼き尽くします。つまり「神のいのちである聖霊を与え、愛の火で人を清める」という意味で、 イエスがもたらしたものはむしろ、ゆるしと恵みでした。
わたしたちも、「愛と喜びに包まれた待望の時」として、この待降節を過ご
したいものです
(援助マリア会 杉原法子)