わたしは大地に飢えを送る。
それはパンに飢えることでもなく
水に渇くことでもなく
主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
人々は海から海へと渡り
北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが
見出すことはできない。(アモス8:11-12)

アモスはパンや水に対する飢えや渇きの他に、主の言葉への飢えや渇きがあること、「人はパンだけで生きるものではない」(ルカ4:4)ことを思い出させてくれます。神は人の渇きをいやすため、励ましの言葉を与え、イエスといういのちの言葉をも与えて下さったのです。

ヨハネによる福音 6:51-58
(その時、イエスはユダヤ人たちに言われた。)
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパントとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々にたべさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、私もまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べるものもわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べるものは永遠に生きる。」

イエスが5つのパンと2匹の魚を5千人以上の群集に分け与えた出来事を契機に、パンをめぐるイエスと人々の論争が始まります。「天から降ってきたパン」、このパンを食べるなら永遠に生きる」と、イエスはご自分が「生きるパン」であることを一貫して述べられます。イエスの与えるパンとはイエスの「血と肉」、つまりイエスさまそのものです。それを食べて飲むことが、永遠の命への道であるのです。イエスはご聖体としてご自分を食べられる存在としてお与えになりました。これ以上の愛の形があるでしょうか。ご聖体の形で、命の源泉である「まことの食べ物」を食べさせていただくとき、私たちはイエスの内に入れていただき、イエスもまた私たちの内に留まって下さいます。この恵みに与る私たちは、すでに新たな命を生き始めているといえるのです。