11月1日は「諸聖人の祭日」です。どのような生き方をした人たちが聖人と呼ばれるのでしょうか。

使徒的勧告『喜びに喜べ』には、神の証として生きるよう呼ばれている信徒は、主の前で、聖なる者、汚れのない者であるようにと選ばれた者であると書かれています。イエスはマタイ福音で、「私の父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」と言われています。私たちは、聖人は特別に選ばれた人がなるものだと考えてしまいがちですが、聖人になるために司祭や修道者になる必要はない。日常生活から離れたところで祈りに多くの時間をささげることができる人たちの特権ではないと教皇様は言われれます。それぞれが置かれている場で、日常の仕事を通して、家族を愛し、人々に奉仕する生き方を通して聖なる者となることができるのだと強調し、私たち皆が聖性への道に呼ばれていることを確信を持って言われます。マザー・テレサも「ありふれたところに愛をこめて行うように」と言われました。特に大きなことができなくてもいい。毎日の掃除や料理をする中で、神の愛を証しできるのだと言っておられます。シスター渡辺も、「人生には決して雑用はない」と、よく言っておられました。

『喜びに喜べ』の中には、聖性への道がいくつか示されてされていますが、私の心に響いたのは、人々の忍耐の中に聖性を見ることができるということです。あふれるほどの愛を注いで子育てにあたる親、家族の生活の糧のために働くお父さん、笑顔を絶やさない病気や高齢者たち、日々歩み続けるこの根気の道に「身近な」聖性を見ると言われるのです。具体的な事例として、「陰口を言わない」ことが挙げられています。やさしいようでなかなか難しいことですね。私は、他者の陰口を決して言わない人を知っていますが、本当にすごいと思います。これも聖性への道です。

「聖性を恐れてはなりません」と言う項目がありますが、私たちは聖人というと厳しい道を想像し、生活の楽しさや喜びがなくなると思ってしまう、それを見透かされているようですね。「聖性はあなたの力、生活、楽しみを奪いはしません。むしろ、御父があなたを造られたときに思い描かれた者となり、本当の自分になるのです」。聖なる者となることは本当の自分になること、つまり自己実現なのです。人間は一人ひとり誕生の初めから聖なる者として創造されているということですね。驚くべきことです。アインシュタインは、人生は神の奇跡だと言っています。

教皇様は、聖なる者に変えられていく生き方として、イエスさまの教えて下さった「真福八端」の道を勧めておられます。真福八端はキリスト者の身分証明書のようなものです。それはイエス様の肖像が描かれており、わたしたちはそれを、日々の生活の中で透けて見えるようにしなさいと呼ばれているのです。」

最後に絶えざる祈りの必要を語っておられます。祈りのない聖性はありません。「聖人とは神とのつながりに必要な祈りの心を持つ名人です」。カルメル会を創立した聖人、十字架の聖ヨハネは、常に神の現存にとどまる努力をすることが大切だと言います。その上で、仕事をしながら祈る、「活動の中の観想」を勧めておられます。食べるにしても飲むにしても、「常住坐臥」日常生活すべてが祈りになると云うことですね。すべてが祈りに代わるから雑用はないのですね。

聖性へと招かれた私たちも忍耐をもって祈りの人になりましょう。祈りは目に見える現実から自分を切り離しはしません。神の大いなる栄光のために、聖なる者になりたいという熱い思いを抱き、それを目指して互いに励ましあうことができますように。これがフランシスコ教皇様の願いです。

 この度の教皇来日のテーマは「すべてのいのちを守るため~PROTECT ALL LIFE」が掲げられています。現代の世界に最も直結した課題です。アッシジのフランシスコの「太陽の賛歌」の冒頭の言葉「あなたは讃えられますように」という『ラウダト・シ』の回勅から取られたことばです。この書物には「共に暮らす家を大切に」という副題がついており、地球破壊や気候変動と言った差し迫った課題を取り上げ、そこには環境破壊で叫びをあげる地球と格差社会の底辺であえぐ人々の叫びが重なって響いてきます。

あらゆる困難が重なる現代社会にキリストを証し、傲慢で自己中心的な人間の生き方を見直させることを決してあきらめない教皇様の姿勢は驚異的です。日本の教会へどんなメッセージを下さるのでしょうか。教皇様の来日が待たれます。

援助マリア会 杉原法子