援助マリア修道会
Sr 杉原法子

  毎年、この時期になると思い出す出来事があります。これまでにも何回か講座で分かち合った話ですが、今日もわたしの胸にあの時の体験がありありと蘇ってきます。

  私はその頃まだ若い修道者で、養成のため英国に派遣されていました。

  ある年の春休みに、ローマの修道院を訪ね、友人に誘われて、遺跡フォロ・ロマーノを見学に出かけたときのことです。その帰途、「マメルティーノ」と呼ばれる牢獄に偶然出くわしました。そこは、ペトロとパウロが幽閉されていた所でした。私たちは迷わず、入場料をいくらか払って中に入りました。が、そこには見るものは何もなく、薄暗い土間が広がっているだけでした。たった一つ地下に通じる狭い階段がありました。好奇心に引かれてそこを降りていくと、部屋の隅に、一つの大きな岩と鎖が小さな豆電球のもとに照らし出されました。「ああ、ここであの大聖人が、迫害下の教会のために祈っておられたのか」と、胸にこみ上げてくる思いに時を忘れてしまったのです。私たちは、現代の沈黙の教会のためにしばらく祈っていました。突然電燈が消え、暗闇の中に閉じ込められてしまったのです。手探りで階上に出たものの、入場口は施錠されていました。青くなりながら、どこかに出口はないものかと、四方の壁を手で叩きながら隈なく探しました。あったのです!たった一つのドアが開きました。しかし、外には高い鉄条網が立ちはだかっていたのです。とても乗り越えられないとわかった時の悲壮感をご想像ください。時は聖木曜日、復活祭まで開館されないこの牢でどのように過ごそうかと思案していた時、遥か彼方に、観光客のグループの姿が見えたのです。二人は知っている言語をすべて駆使して叫び、わたしたちは無事救出されました。(現在はこの牢の上に立派な教会が建っているそうです。)

  短い時間でしたがペトロとパウロと同じ牢に繋がれるという不思議な出来事は、両使徒との忘れえぬ出会いの神秘的な体験となりました。教会の柱となったこの二人を想うとき、神の選びの不思議さを感じます。ペトロは学問もない素朴な漁師でした。キリストの受難の時には、三度もイエスを知らないと否んだのです。しかし、ペトロはこの弱さの体験を通して、最も深く主イエスと出会うことができました。一方、正義感の強いパウロは、自分の信念に従ってキリストを迫害する人々の先頭に立っていたのです。イエスはこのパウロの器を選ばれました。イエスに呼ばれたパウロは自分の弱さを悟り、180度生き方を変えました。神さまはどんな人をお選びになるのでしょうか。人間の定規とは随分違うようです!

  命を懸けてキリストに殉じたペトロとパウロが、今日私たちに伝えてくれるメッセージ、それは、「人が自らの無を悟った時にこそ、真に強くなれる」という、真実の福音ではないでしょうか。キリストの弟子である私たちも、自分の弱さを誇り、弱さの中で働いてくださる主にどこまでもついて行きたいものです。