信仰の擁護者である聖フランシスコ・ザビエル、あなたは主の恵みによって、感嘆すべき信仰の恵みをもって、多くの人々を信仰に導かれました。神のみが唯一の真理であることを、私たちに固く信じさせてください。また、まだ信仰に恵まれていない人々を、信仰の闇から真理の光に導いて下さい。

聖フランシスコ・ザビエルの祝日、おめでとうございます。
1549年8月15日、聖フランシスコ・ザビエルが日本に渡来し、初めて神の福音を述べ伝えた日は、聖母の被昇天の大祝日でした。日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、「東洋の使徒」と呼ばれています。ザビエルが多くの犠牲を払ってはるばる日本に来たのは、日本の人々に神の福音を伝えようとする以外に目的はありませんでした。
ザビエル城のチャペルには、「ほほえみの十字架」像が架けられていました。幼いときからその前で家族と共に祈り、彼の信仰の原点となったものです。1552年、ザビエルが中国のサンチャン島で息を引き取った時には、ほほえみの十字架から血のような汗が流れたと伝えられている奇跡の十字架です。キリストは、人間の救いのため、いけにえとして自らすすんで十字架にかけられ、壮絶な死を遂げられました。そのキリストが十字架上でほほえんだとは、どこにも記されていません。「キリストは多くの苦しみを受け、十字架の死を通して復活の栄光に上げられ」ました。「ほほえみの十字架」は、十字架上の死と復活の栄光の姿を同時に見える形で表現しているように思います。
この十字架への愛に駆り立てられて、イエスに命を賭けたザビエルもまた、イエスのように情の深い人であり、彼の躍動的な活力もそこから流れ出ているように思います。

【十字架上のキリストへの祈り】
主よ 私があなたを愛するのは
あなたが天国を約束されたからではありません。
あなたにそむかないのは
地獄が恐ろしいからではありません。

主よ 私をひきつけるのは
あなたご自身です。
私の心を揺り動かすのは
十字架につけられ、侮辱をお受けになったあなたのお姿です。
あなたの傷ついたお体です。
あなたの受けられた辱めと死です。

そうです。主よ。
あなたの愛が私を揺り動かすのです。
ですから たとえ天国がなくても
主よ 私はあなたを愛します。
たとえ地獄がなくても
私はあなたを怖れます。

あなたが何もくださらなくても
私があなたを愛します。
望みが何も叶わなくても
私の愛は変わることはありません。 66「勝利と力は神のもの」①②
私があなた方にお願したい唯一のこと、それは主なる神に大きな感謝を捧げていただきたいことです。この島、日本は聖なる信仰を大きく広めるために極めてよく整えられた国です。
神は、私たちが憧れていた日本の地にお導き下さり、1549年8月15日、聖母の祝日に到着しました。まず、同行した日本人信徒のパウロの郷里である鹿児島に上陸しました。ここで私たちは、彼の親戚はもちろん、多くの人々より心からの歓迎を受けました。
この国の人々はこれまでに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人々は見つけられないでしょう。一般的に、彼らは親しみやすく、善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉を重んじます。大部分の人は貧しいのですが、武士もそうでない人々も、貧しいことを不名誉とは思っていません。名誉は富よりもずっと大切なものとされています。
彼らはまた社交性もあり、知識欲は極めて旺盛です。大部分の人は読み書きができますので、祈りや教理を学ぶのにたいそう役立ちます。
彼らは大変喜んで神のことを聴き、それを理解したときの喜びようは大変なものです。日本の人々は、哲学者のような生活した釈迦や阿弥陀のことを崇拝しています。彼らの多くは太陽や月を拝みます。彼らは道理にかなったことを聴くのを喜びます。彼らの悪習や罪について、理由を挙げてそれが罪であることを示すと、素直に受け入れます。

あなた方が贖い主にして主なるイエス・キリストへの奉仕のために、さまざまな苦しみを堪えしのぶことを望んでいただきたいのです。神は、奉仕そのものよりも、人々が自分を捧げ、神への愛とその栄光のためにだけ、全生涯を捧げようとする謙遜に満ちた善良な心を重んじられるのだということを常に思い起こしてください。