援助マリア会 杉原法子
12月2日(日)は待降節第一主日です。典礼暦では新しい年を迎え、クリスマスを迎える準備の時節に入ります。
その準備の一環として、11月17日、フォロアップ講座で話した「ゆるしの秘跡」のダイジェスト版をお届けします。
「ゆるしの秘跡」はカトリック教会の宝の一つです。罪のゆるしを積極的にいえば、「恵み」が現実に心の中に授けられる秘跡です。イエスと出会い、元気になるゆるしの秘跡に、皆さんにもっと親しんでもらえるよう、「幸いなる罪びと」というテーマで話します。
神は、罪自体は相反するもので忌み嫌われますが、罪を犯した人間のことは相変わらず大切にされるお方です。
「放蕩息子」(ルカ15:11-24)の物語にあるように、命から遠く離れてしまった罪びとをあわれに思って探しに出かけるような神さまなのです。キリストの教えの特徴はここにあります。罪人が心の中に神のことばを聞き、神の声に従い、神のもとに帰るときの神の喜びを表現します。罪びとの回心は神さまのためのお祝いなのです。罪のゆるしをこのように理解すると、ゆるしの秘跡は、惨めな気持ちを抱かせることではなく、かえって神の慈しみとの嬉しい出会いとなり、生きるエネルギーを与えてくれるものになるでしょう。
まず罪とは何でしょうか。 聖書的にみると、罪の表現に「的を外す」という原語が用いられています。つまり、罪の本質とは、「的」を外れて神から離れるということになります。大事な決断に当たって、私たちがキリストに従わず、キリストと共に生きることをやめる、これが的外れという罪ですね。私たちが、自由に、意識的にキリストではなく他のもの、消費社会や富や名誉などの弟子になってしまうとき、罪が生じるのです。
イエスさまは、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来た」(マタ9:13)と言われます。
キリスト教の本質的な教えは、イエスの死と復活によって人間の一切の罪がゆるされるということにあります。最初に受けるゆるしが洗礼によるゆるしです。洗礼によってそれまでの罪がすべてゆるされ、新しい命をいただきます。洗礼を受けた皆さんは、イエスの価値観を生きていこうと根本的な回心を体験されました。しかし、洗礼の後も闘いは続きます。「悪への傾き」は残っていて、弱い意志のまま誘惑にさらされていることも事実です。わたしたちを罪に誘う悪の力は恐ろしいものです。ペトロの手紙に「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠え猛る獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかりとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(5:8-9)とあります。このような状況の中で苦しむ私たちに、「ゆるしの秘跡」が与えられているのです。「罪のゆるし」は、罪(的外れ)の状態から、的である神に立ち戻ることです。パウロが「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ロマ7:19)と言っているように、私たちは皆、一方では真実を求めながら一方ではそこから遠ざかろうとしている、このような矛盾を自分の中に抱えながら生きています。その失った調和を取り戻し、共同体とも和解する道が回心とゆるしの道です。
聖書学者カルロ・マルティーニは三つの告白があると言っています。
赦しの秘跡の第一歩は良心の糾明(振り返り)です。自分の過去を振り返り、私たちの生き方の中に、神に向かう歩みから的を外し、自分を神から遠ざけているものは何かを見つめましょう。神は愛そのものですから、的外れということは、神と他者と自分に対して、この愛に反することです。糾明の時、愛の足りなかったところはどこだったかを見ればよいでしょう。個人の罪だけでなく、環境問題や社会的構造的な罪についても考えるように勧めます。
気を付けてほしいことは「小心」と呼ばれるものについてです。頭の中で自分の小さな過失までほじくりかえして苦しむことを「小心」と言います。聖イグナチオも回心した後、小心にひどく悩まされたことがあったそうです。道端で十字架の形をした木の枝を踏んでしまったイグナチオは、そのことを罪ではなかったかと悩んだと霊操に書かれています。小心の根っこにあるものは恐れです。しかし、神の赦しは、平和と愛の中で与えられます。「主よ、隠れた咎からも私を清めてください」と祈りましょう。
ゆるしの秘跡は、神の愛とゆるしが目に見え、体に感じられる形で体験できます。神の憐れみによって、私たちの罪が赦され、キリストとの一致に招かれる恵みの秘跡です。極みまで愛して下さったイエスとの出会いの場であり、キリストの生命に与って新しい人として出発するときなのです。
キリストの代理者である司祭に、1対1で告白し罪をゆるしてもらいます。自分の隠しておきたい罪を他人の前で言葉にする恥ずかしさや抵抗がありますが、この「恥ずかしさ」は「聖なる恥ずかしさ」で、良いしるしです。自分の弱さの傾向が見えてきたり、うまくいかなかった事柄の糸口が見えてきたり、後で平安でさわやかな気持ちになります。ゆるしの秘跡は、恵みをいただく秘跡だと考え方の視点を変えるとよいでしょう。ゆるしの秘跡は、目に見えるしるしの中に、より深く、より広く、大きな神の愛、ゆるしが感じられ、神の命に参与させていただく恵みの機会です。小さな告白という出来事の中に、尽きることのないゆるしという真実があることを悟るなら、罪のゆるしの秘跡は素晴らしい喜びと希望の体験となるでしょう。
(イグナチオ教会フォロアップ講座)
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