復活祭前の準備期間を四旬節と呼びます。
古くから、復活祭に洗礼を受ける志願者の直前の準備期間と考えられてきました。また、既に洗礼を受けた信者も、この期間をとおして節制と回心に努め、自分の生活を振り返ります。

四旬節は「40日の期間」という意味です。40という数字は、イエスが荒れ野で40日間断食をしたことに由来していて、それにならって40日の断食という習慣が生まれました。けれども実際には、復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)から四旬節が始まります。それは、主日(日曜日)には断食をしない週間だったからです。灰の水曜日に教会では、回心のしるしとして頭か額に灰をかける「灰の式」という典礼があります。

キリスト教が根付いている国では、この灰の水曜日の直前に、「カーニバル(謝肉祭)」というお祭りがあります。古代や中世期の信者たちは四旬節に肉食を断っていたので、その前にご馳走を食べて大いに騒いでいました。その習慣がこんにちまで続いているのですが、教会とは直接関係がありません。

断食については、現在では完全に食事を断つというよりも、充分な食事を控えることと考えられていて、以下のように、「大斎・小斎」があります。大斎と小斎を守る日は灰の水曜日と聖金曜日(復活祭直前の金曜日)、小斎を守る日は、四旬節中の祭日を除く毎金曜日です。但し、病気や妊娠などの理由がある人は免除されます。

  • 大斎=一日に一回だけの充分な食事と、そのほかに朝ともう一回はわずかな食事をとることが出来ます。満18歳以上満60歳未満の信者が守ります。
  • 小斎=肉類を食べないことですが、各自の判断で償いの他の形式、とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざの実行をもって代えることができ、満14歳以上の信者が守ります。

(カトリック中央協議会ひとくちメモより抜粋)

〔灰の水曜日〕

 創世記 2:7, 3:19
「主なる神は土の塵で人をかたち造り、
   その鼻に命の息を吹き入れたれた。人はこうして生きるものとなった。」
「おまえは土に帰るときまで、顔に汗してパンを得る。
   塵にすぎないお前は塵に帰る。」

本来、私たちは無なのです。神さまは土をこねて人間に造り、その鼻に命の息を吹き込んで生きる者として下さいました。こうして神さまに頂いた「自分の人生」ですが、これまた、いつか終わる。塵でつくられた私たち、「この世」の生を終え、塵に帰る時が来ます。

しかし、神さまはご自分の造られた人間に、虚しい暗闇を用意しておられるはずはないのです。人間は塵にすぎず、儚い存在であるということを心に留めておられます。だから、私たちには、主イエスが与えられ、彼を信じて生きた者には、永遠のいのちが約束されています。

それだけでなく、神の国で主とともに憩うことが出来るという特権まで与えられているのです。実に、神さまはご自分の「ひとり子をお与えになったほどに、世を愛してください」ました。神が人となると言うことは、言語に絶する究極の神秘です。しかもパウロが言っているように、「神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、人間と同じものになられた。」このイエスの無化こそ、罪を遥かに凌駕する恵みです。神が人となった、この壮絶とも言える恩恵の前にひざまずきましょう。

〔四旬節第一主日の福音〕

イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。
そして、荒れ野の中を「霊」によって引き回され、四十日間、
悪魔から誘惑を受けられた。その間何も食べず、その期間が
終わると空腹を覚えられた。
(中略 ①石をパンに変える誘惑、
②権力と繁栄と引き替えに悪魔を礼拝するという誘惑。
③神殿の屋根から飛び降りるという誘惑)
イエスは全てに神の言葉をもって誘惑を退けました。
悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
(ルカ4:1-13)

イエスが自分の使命を歩み始める前に、聖霊に導かれて荒れ野に入ったということは事実のようです。洗礼によって自分の使命を自覚したイエスがこれからメシアとしてどのように歩むべきかを考えるためであったと思われます。聖書は、イエスが、生涯を通して、神から託された使命を生きる上で、いかに厳しく試みられたかを伝えています。

荒れ野は生命を寄せ付けない場所であり、イスラエルの民も、水や食べものを求めてつぶやいたところです。イエスを誘惑し、神から切り離そうとするサタンにとって、絶好の場所でした。

荒れ野の悪魔は、イエスに「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」とささやきます。十字架に上げられたイエスに、「もし神からのメシアなら、自分を救うがよい」と罵声と重なって響いてきます。しかし、イエスは石をパンに変えなかったように、十字架から降りるようなことはしませんでした。十字架にとどまることによって、神とは誰であるかを示すためでした。神とは、私たちが経験するあらゆる苦しみの時に、私たちを支え続ける方であることを。イエスは、最後の死の瞬間にも、神がわたしたちを見守り続けていることを示して下さいました。わたしたちが、この世の荒れ野を生きぬいて救いに入るために、神の子イエスは悪魔を退け、その誘いの空しさを示されたのです。

イエスは誘惑を克服してガリラヤに戻り、神の国の宣教に入ります。確かに、イエスと共に神の国は近づいたのですが、それが世の隅々まで及んだわけではありません。サタンの誘惑が跡形もなく消え去ったわけではないのです。私たちが生きる現実は、まだ「霊」と「サタン」が支配をめぐって争っている時代。「荒れ野」とは神の力と悪魔の力とが拮抗するこの世のことです。

「誘惑」と「試練」は聖書では同じ言葉で表されます。誘惑と言えば「心を迷わせて、悪い方に誘い込むこと」ですが、試練と言えば、「信仰の程度を試して人を鍛えること」を指します。イエスは誘惑を試練に変え、私たちに歩むべき道を示してくださいました。

杉原法子(3月7日「聖体礼拝」での話)