2018年クリスマス
援助マリア修道会 杉原法子

 

「み言葉は肉となって私たちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。

それは父の御独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)

 

皆さま、クリスマスおめでとうございます。
今年は、「あるクリスマスの出来事」という詩を読み、「神さまが人となられた」神秘を深く味わいましょう

老いた一人の農夫がゆりかごに身をゆだねて、暖炉の火を見つめていた。
遠く教会の鐘が鳴っている。クリスマス・イブ。
彼はもう長いこと教会に背を向けて生きてきた。
「神が人間になっただと?ばかばかしい。だれがそんなことを信じるものか。」
目を閉じ、薪のはじける音を聞きながら、彼はまどろみかけていた。

突然窓ガラスに、何かがぶつかる激しい物音。
それも次々に、さらにさらに激しく。
何事かと、彼は身を起こした。
窓際に立って見たものは、音もなく雪の降り積もる夜闇の中に、この家を目指して押し寄せてくるおびただしい小鳥の群れだった。

雪闇に渡りの道を誤ったのだろうか。
小鳥たちはともし火を求めて
ガラス窓に次々とうち当たっては、空しく軒下に落ちていく。

彼はしばし呆然と、その有様を眺めていたが、外に出るや、雪の降り積もる中、一目散に納屋に走った。
扉を左右に大きく開け放ち、電燈を赤々と灯して、干し草を豊かに蓄えたくらい納屋へ、小鳥たちを呼び入れようとした。
彼は叫んでいた。「こっちだ、こっちだ、こっちに来い。」
しかし、羽ばたく小さい命は 彼の必死の叫びに応えず、なおもガラス窓に突き当たっては死んでいった。

農夫は心のうちに思った。
「ああ、私が小鳥になって、彼らの言葉で話しかけることができたらなあー!」
一瞬 彼は息をのんだ!彼は瞬時にして悟ったのだ。
「神が人になられた」ということの意味を。
彼は思わずその場に跪いた。

今や、人となり給うた神の神秘に満ちた愛が、跪く農夫を静かに覆い包んでいた。
彼の上に降りかかり積もる雪は そのしるしとなっていた。

 

ルカの福音は、「人となられた神」の誕生を次のように告げています。

 

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。
「恐れるな。私は、民全体に
与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、
布にくるまって飼い葉桶の中に、寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなた方へのしるしである。(ルカ:~12)

「人となられた神」、イエスの誕生は、弱く貧しい人たちに真っ先に告げられました。羊の群れを絶えず見守るために律法を守ることができなかった羊飼いたちは、罪人扱いされ、差別を受けていました。彼らはその日も野宿しながら羊の番をしていました。イエスに出会った後の羊飼いたちの心に起こった変化、それは自分たちが自分を見る見方が変わったことでしょう。神は自分たちのところに来てくださった。大切な存在なんだ!孤独ではないのだ!「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」
「これがあなたがたへのしるしである。」天使が羊飼いに示したしるしは「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」でした。最も貧しく、最も無力な人々の一人となり、人々の貧しさや弱さをご自分の身に負われた。」これが救い主のしるしなのです。「飼い葉桶」は家畜が餌を食べるところです。イエスは生まれてすぐ、いわば食事をする飼い葉桶に寝かされました。ここにも深い意味があるように思えます。いのちのパンとなって、自分を食べものとして差し出されるイエスの姿の前兆のようです。
わたしたち一人ひとりにもしるしが与えられます。それぞれの救いにつながっていく小さなしるしは、生活の中にいったいどこにあるでしょうか?おそらく皇帝アウグストに関係するような、この世的な金、仕事、地位、人間関係ではないでしょう。幼子イエスは隠れている弱いところに生まれましたから。神のしるしというのは案外目につかない小さなところにあるのかもしれませんね。障害をもった子どものなかに、山谷でテントの生活を送るおじさんたちの中に。その見つけた神のしるしと関わって大事に育て、そのしるしを意味あるものにする。しるしそのものは小さなしるし、苦しみでしかないように見えるしるしを、大事にして育んでいくとき、真の救いの力が生まれるのではないでしょうか。その意味で毎日がクリスマスなのです。