7/18(土)9:00-に配信されたイグナチオ教会のオンライン入門講座の原稿を掲載します。


2020年 7月11日

「楽園と失楽園」
― 聖性への招き ―

イグナチオ教会

「聖書」を英語で「BIBLE」と言います。つまり、「本」という意味で、題のない本と言えば聖書を指します。聖書は人類の残した素晴らしい遺産です。イエス・キリストを基準にして、それ以前の聖書を旧約聖書と呼び、それ以降の聖書が新約聖書です。旧約聖書の構成は、最初にモーセ五書がきます。「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の順ですね。続いて歴史書、詩歌、最後に預言書が来ます。旧約聖書では、神と人間の関係、すなわち信仰が具体的な事柄の中で捕らえられ、現実の苦しみや悩みに目が向けられています。個人の苦しみ、悩みというより、民族の苦しみ、悩み、闘いが問題の中心です。
 創世記1~11章は、全人類の原初の物語です。神による創造とその秩序を破壊する人間の物語を述べる原初の歴史ですが、そこに登場するのは人類一般の祖先であって、イスラエルの祖先ではありません。
「創世記」によると、まず、人間は人格として、ほかの動物や自然とは違った、特別な存在として創造され、「楽園」に住んでいたことが、次のように表現されています。

創世記2:8-14,25,3:4-10
「8主なる神は、東の方にエデンの園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。9主なる神は、見るからに好ましく、食べるによいものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられた。10エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。11第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。12その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。13第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。14第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。」   

それからずっとのちの時代になって、紀元前5世紀に活躍したイザヤ預言者が、来るべき楽園の状態を次のように描いています。


イザヤ11・6-10  
「6狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい
 子供がそれらを導く。7牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。
9わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」    
動物たち画睦み合う画像
絶対に折り合わないであろう者達が仲良く暮らしている一幅の絵ですね。狼と子羊、豹と子山羊、子牛と若獅子、雌牛と熊、乳飲み子とコブラ、乳離れした子とまむしの子・・・とは何というコントラストでしょう。ここに、楽園が存在すると言っています。
このような聖なる山、「楽園」はこの地上のどこにあるのでしょうか?聖書にはチグリス・ユーフラテスの名が書かれているので、メソポタミア(現在のイラク)地方だったのでしょうか?チグリス・ユーフラテスは、ユダヤ人にとって先祖アブラハムの出生の地、故郷のような地だったのかもしれませんね。では、私たちにとっての楽園はどこにあるのでしょうか?楽園も失楽園も人々の心の中に存在するのではないでしょうか?
人は神の似姿として作られました。エデンの園の中央には、「命の木」と「善悪を知る木」植えられていると書かれています。「命の木」とは、アダムの鼻に息を吹きかけて人を生きるものとされた「神のいのち」のことです。人は造られた初めから、聖霊に満たされていたのですね。神はその心の中の楽園を度々訪れ、常に神と人間が親しく交わることができる状態に創造されました。神は、そのどの木の実でも自由にとって食べてよいと言われました。これが、わたしたちの「本来の自分」の姿であったはずです。
では、どうして人間はその幸せな本来の自分を失ってしまったのでしょうか?エデンの園の中央にはもう一つの木「善悪を知る木」が植えられていたと書かれています。「命の木」は人間にとってとても大切なので、それを守るために、善悪を判断する能力の木、「善悪を知る木」を併せて植えてくださいました。それはすべての人に与えられている人間の良心のことでしょうか。神さまは、「善悪の木の実は決して食べてはならない。死ぬといけないから」と言われました。他の木々の実は自由にとって食べてもよい。自分の好きなようにしてよいのです。しかし「神の命」を守る「善悪を知る木」だけは、人が自分勝手にすることは決して許されませんでした。
善悪の知識の実を食べるということは、「何が善で何が悪かを自分が決めて、自分が裁く」
ということの始まりです。つまり人間が神に替わって裁くということですね。自分が神の座にすわって裁くということは、人間の傲慢の極致です。その結果何が起こるのでしょうか?それは、人格の破壊です。人祖アダムとエヴァは裸だとわかったと書かれています。裸であるということは、心も空っぽになってしまうという、深い喪失を意味しています。
エデンの園、すなわち楽園で、神の言いつけを守らず、善悪の木の実を食べたアダムとエヴァの行いは、失楽園を招きました。神に代わって自分が善悪を裁くようになった結果、人間は、絶え間ない戦争や争いを引き起こし、痛みを経験するようになりました。それでもまた人間は同じ過ちを繰り返してきたのです。民主主義という平和と自由を謳う思想でさえ、主権は人にあるのだと、絶えずその権力の奪い合いを繰り返しています。近代化された社会において、一見善に見えるようなところに、実は悪がはびこり、進歩・発展のように見えるところに、後退が起こる。失楽園はそのようにして人間の世界に広がっていきます。視座を神に置かない限り、人と人との闘争は永遠に終わりなく、苦しみの再生産が続きます。
しかし、失楽園であるこの世の中にあっても、希望を失わず、目の前の現実に目を背けず、家族や仲間と共に、解決するための勇気をもって行動している人たちはたくさんあります。痛みや苦しみの中にいる人に手を差し伸べて、ともに悲しみ、喜べる世界、そこに楽園が存在します。悲しむ人が一人でもあれば、真の幸せを感じることはできません。自分だけの喜びは決して幸せではありません。神に視座を置くかぎり、現代の社会の中に楽園を見出すことができます。
「罪」の原語を「旧約聖書」つまりヘブライ語で見ると、「ハター」というそうです。元来の意味は「的を外す」、つまり「間違った道を行く」という意味になります。「新約聖書」では、ギリシャ語で「ハマルティア」と書かれていますが、こちらも元の意味は、「ハタ―」と同じで、「的を外す」という意味になります。
つまり、罪の本質は、「的を外す」こと、神から離れるということです。
アダムとエバに戻りましょう。神から離れ神の前に裸で立てなくなりました。自分に対しても自分自身を隠さなければならなくなります。自分たちにとっての善い悪いという基準は「的外れ」であったのです。大事な決断に当たって、私たちが神に従わず、神と共に生ることをやめる、この神との分裂は、自分自身との分裂の始まりでもあります。
私たちが、自由に、意識的に、神ではなく他のもの、消費社会や富や名誉などの奴隷になってしまうとき、罪が生じます。「神のいのちの木」を犯し、愛である神から離れてしまうことになります。愛を失い平和も安らぎもない状態になります。大きな罪になると、他者も自分も受け入れられず、心は憎しみでいっぱいになります。聖書に登場する悪魔付き(ex. Mc.5/1-10のガラダの悪魔付き)のように、自分の身を傷つけ、引き裂き、大声をあげてのたうち回る状態になります。地獄というのはこのような状態をいうのでしょう。
 さて、アダムとエヴァは悪魔にそそのかされて、「善悪を知る木」から実を取って食べました。蛇は言います。「食べると神のようになる」と。こうして、神から愛され、永遠の幸福の中で生きるように作られた人間は、神に敵対するものになってしまいました。神から遠ざかり、憎しみと苦しみの状態に自らを投げうってしまったのです。これが、今日の苦しみの中にいる私たち人間の姿です。
1.現代の苦しみは、自分の心をコントロールできない苦しみです。
2.自分中心で人を愛することができない偏狭な心の苦しみです。
3.人が貧しさや飢えで困っていても、心を寄せることのできない無関心からくる苦しみです。
4.自分の欲を追い求める苦しみです。 
5.神も人も信じることのできない孤独の苦しみです。
6.自然災害に遭遇し苦しい生活を余儀なくされても、神に祈ることを知らない苦しみです。
人は、神と共にある永遠の喜びを自ら拒否しました。そのときから、園を耕し、豊かに成長させるという労働の喜びは、今や困難になり、苦しみとなってしまいました。パウロは言っています。『わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている』マ7:19)
キリストを愛してやまなかったパウロでさえ、自分を制し、成長させることは難しかったようです。これが「現実の私」の姿なのです。
しかし、人は、生きている限り、聖なる者になるよう招かれています。イエスさまはマタイ福音書の中で、「私の父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい。」と言っておられます。それを受けて、第二バチカン公会議では、次のようにはっきり言明しています。「すべてのキリスト者は、どのような生活条件と身分であっても、各自自分の道において、父自身が完全にもっている聖性に達するよう主から招かれている」のです。
教皇フランシスコは、その回勅、「喜びに喜べ」、使徒的回勅「福音の喜び」を通して、現代世界の危機的状態の中に生きるわたしたちを、聖性への道へと招いておられます。
「喜びなさい。大いに喜びなさい。主が私たち一人ひとりを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと」(エフェゾ1・4)選んでくださいました。パウロの言葉で始まるこの文書は、一貫して私たちに聖なるものとなることを勧めています。主が、私たちに望んでおられるのは、一人一人が聖なるものとなることであり、平凡で生ぬるい生き方にとどまることではないのです。神は私たち一人ひとりを大切にして、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、選んでくださいました。このオンライン放送を聞いてくださっているあなたもわたしも、一人ひとりが聖なる者になるように招かれているのです。これほどの大きな喜びがあるでしょうか。私たちは、聖人なんて特別に選ばれた人がなるものだと考えてしまいがちです。でも、すでに列聖された人、列福された人ばかりが聖人ではないのですね。回勅では、聖人になるために、司祭や修道者になる必要はない。
日常生活から離れたところで、多くの時間を祈りにさくことができる人たちの特権ではないと言っておられます。それぞれが置かれている場で、日常の仕事を通して、家族を大切にし、他者に奉仕する生き方を通して、聖なる者となるよう招かれているのです。わたしたち皆が例外なく聖なる者となるように呼ばれています。何という喜びでしょうか!
日常の雑事の中で、自分に与えられた使命を忠実に果たせば、どんなところでも聖なる者へと変えていただけるというのですね。私たちの喜びの原点はここにあります。実際に目立たない生き方をして、自分の生を全うした人たちは、皆さんの周りにもたくさんおられるのではないでしょうか。
個人的な話ですが、わたしの母は、もう40年も前に他界しました。彼女は、特に学問もなく、普通の人でした。父を助けて、暑い夏も寒い冬も戸外で仕事をしながら、子供たちを育てました。彼女の手は荒れていつも傷ついていました。聖人というとき、わたしはそんな母の手を思い出すのです。マザー・テレサも「ありふれたところに愛をこめて行うようにと言われます。特に大きいことができなくてもよいのです。日常生活での掃除や料理に心をこめる中で、神の愛を証しすることができます。ちょっと話がずれますが、教皇さまが、その文書の中で、聖性の第一人者として挙げておられるのは、「人の悪口を言わない人」です。これはすごいことですね。他者の悪口をいうことは、他者ばかりでなく、自分をも不愉快にさせますから、誰もがいけないとわかっていながら、実行は難しい。しかし、ここに聖性への近道があると書いておられます。
繰り返しになりますが、聖なる者となるためには、日常のもろもろから離れて、祈りに多くの時間を割く必要はないのです。自分が置かれている場で、日常の仕事を心をこめて行い、自分に与えられた使命を忠実に生きることで、聖なる者となるように招かれているのです。特に、教皇様は続けられます。日夜、子育てにすべてを注いでいる母親、家族の生活ために身を粉にして働く父親、病床にあっても笑顔を絶やさない人々。この人々を取り上げ、この人たちの忍耐の中に聖性を見ることができると言われます。聖なる生き方は、神がわたしたちを造られたときに思い描かれた青写真、本来の自分の姿となっていく道です。別の言い方をすると、聖なる者となることは、自己実現への道なのです。神の恵みをいただいている私たちは、能力を最大限に生かして、聖なる者になっていくこと、これが自己実現への道なのです。
人間は一人ひとり誕生の初めから、聖なる者として楽園に創造されました。しかし、初めに見たように、わたしたちは同時に弱い存在で、失楽園へと安易な道に走ってしまいがちです。聖性は弱さと恵の力の出会いの場であると言ってもよいかもしれません。
神の恵みに助けられて、精神の高みを目指して歩みましょう。
昨年の教皇フランシスコの来日は、皆様のご記憶にまだ新しいことでしょう。この教皇様が私たちすべての者に望んでおられることは、神の憐れみ、慈しみの証し人となることです。現在コロナ感染症のパンデミック、経済の危機。世界は、過酷な現実を生きている人々が実に多いのです。その人々と真摯に向き合っていく責任があるのではないでしょうか。教皇様のまなざしは、教会そのものを超えて、もがきくるしみながら歩んでいるすべての人々の方へ向かっています。私たちの教会はもっと開かれた教会となって、教皇様の言葉を借りるなら、傷を負った人々に気を配る野戦病院のようでなければならないのです。
アルゼチン出身の教皇さまは、現地のスラム街に生きる人々、貧しさの極みの中で生活しなければならない人々と肌を接するような司牧をしてこられました。教皇様は言われます。
教会は、「放蕩息子が戻ることができる憐み深い父の家」でなければならないと。皆様の中には、このたとえ話をご存じない方もおられることでしょう。お手元に聖書をお持ちでしたら後でルカ15章を開いてみてください。ここに書かれているたとえ話は、イエスの教えを凝縮したものです。しかも、現実の生きた世界を現しています。家庭が揺らいだり崩れたりしたため、人生が揺らぎ、みじめな人生を余儀なくされてしまった人たちが多い現代の世界で、家族は、人間一人ひとりを互いにかけがえのない存在として無条件に受け止めて、寄り添い関わっていくことができる共同体です。家族は人間の尊厳を守る最後の砦です。もし、イエス様が現在の世界に生きておられたら、このような人たちに心を寄せ、かけがえのない一人ひとりの尊い人生を何としてでも守りたいと、心を痛めて奔走しておられるに違いありません。神さまは、教会を超えてすべての人々が幸せであることを心から願っておられのです。
わたしは、この神さまの姿を生きておられる方々を知っています。そして私たちも、そのように生きるよう招かれているのです。その一つ一つの行為は大海の一滴の水にすぎないかもしれませんが、その一滴がなかったら大海もありません。

教皇フランシスコの回勅は、一貫して社会の中で生きている人々に対する温かいまなざしが感じられます。読む者の心に素直に響いてきます。「福音の喜び」「喜びに喜べ」などを通して、現代を生きる信徒への願いが伝わってきます。自分たちだけの安定を求めて小さく人生を生きようとしている場合ではない、心を大きく開いて、響きあう社会を目指すようにというメッセージに耳を傾けてみましょう。

教皇回勅「喜びに喜べ」では、イエス・キリストの福音「よい知らせ」を伝える者として、まず信徒が喜びの人であるようにと促します。「喜びなさい。大いに喜びなさい。」(マタイ5:12)新しい福音宣教の原点は「喜び」にあります。すべての信徒は宣教に招かれています。しかし喜びをもって生きていなければ、宣教は当然難しいでしょう。現代世界に生きる「聖なる者への招き」を別の言葉でいうなら、「喜びをもって生きる」ということです。キリストはすべての人々の中に生きておられます。福音の喜びは、この生きたキリストの喜びを伝えることです。キリストとの出会いはすべての人の心と生活を豊かに満たしてくれます。この信仰の喜びが、多くの困難や問題を乗り越える真の力になるのではないでしょうか。今日も、新たな一歩を踏み出せるように、イエス・キリストと繋がっていましょう!

キリストに倣う生き方を徹底的に追及した聖人があります。11世紀に活躍したアッシジのフランシスコです。聖フランシスコは、草花、小鳥たち、魚も市井の人々も、すべての生き物に対する愛情のまなざしを注ぎ、生かされていることへの感謝と賛美を歌いました。カトリック教会の公文書の一つである回勅『ラウダ―ト・シ』は、神を讃えて書き起こされた文書ですが、格差社会の底辺であえぐ人々の叫びと環境破壊で叫びをあげる地球とが重なって響いてきます。あらゆる困難が重なる現代社会にキリストを証する使命をいただいたわたしたちは、愛と平和のために力を尽くすことができるように、自己中心的な生き方を見直す必要があります。
私たちは聖人というと厳しい道を想像し、生活の楽しさや喜びがなくなると思ってしまう、それを見透かされているように教皇様は言っておられます。「聖性はあなたの力、生活、楽しみを奪いはしません。むしろ、御父があなたを造られたときに思い描かれた者となり、本当の自分になるのです」。聖なる者となることは本当の自分になること、つまり自己実現なのです。人間は一人ひとり誕生の初めから聖なる者として創造されているということですね。驚くべきことです。アインシュタインが、人生は神の奇跡だと言っている意味がわかるようです。
聖なる者に変えられていく生き方として、イエスさまの教えて下さった「真福八端」の道が勧められます。8つの幸いですね。簡単に紹介します。

1「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

2 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。

3 柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
 
4 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。

5 あわれみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける。

6 心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。

7 平和を実現する人たちは、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
  
8 義のために迫害される人々は、幸いである。天国はその人たちのものである。
  
 
この真福八端はイエス様の肖像が描かれており、キリスト者の身分証明書のようなものです。日々の生活の中でこれを生きるように求められています。そのためにはイエスとの出会いが大切です。絶えまない祈りが必要です。祈りのない聖性はありません。聖人とは、神とのつながりに必要な祈りの心を持つ名人です。カルメル会を創立した聖人、十字架の聖ヨハネは、常に神の現存にとどまる努力をすることが大切だと言います。その上で、仕事をしながら祈る、「活動の中の観想」を勧めています。食べるにしても飲むにしても、「常住坐臥」日常生活すべてが祈りになるということですね。すべてが祈りに代わるから雑用はないのです。聖性へと招かれた私たちも忍耐をもって祈りの人になりましょう。祈りは目に見える現実から自分を切り離しはしません。神の大いなる栄光のために、聖なる者になりたいという熱い思いを抱き、それを目指して互いに励ましあうことができますように。祈りをもってこの講話を終わらせていただきます。