聖霊降臨後の第二木曜日は「キリストの聖体」の
祭日です。日本の教会では次の日曜日に祝われます。
聖体は、わたしたちが「キリストの死からいのちへ
の過越」に結ばれることを意味しているので、四旬
から復活節の典礼の延長上にあります。

 

ルカによる福音9・11~17
(その時、イエスは群衆に)神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾き始めたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所」にいるのです。しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。この全ての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」と言われた。弟子達は、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

五千人に食べ物を与える物語は四福音すべてが伝えています。ルカの朗読によれば、イエスは群集に、神の国について語り、病人を癒す業の延長線上にパンと魚の出来ごとを記しています。五つのパンと二匹の魚の出来事も、病気の人々をいやす業と同じように、「神の国」が始まったことを表わすひとつの印として描かれているようです。
夕暮に人里離れた所で五千人の食べ物を手に入れることはできません。空腹の群集を見た弟子たちは、彼らを解散させてほしいとイエスに頼みます。イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と返されました。あたかも、神の国はあなたがたの手によって広められなければならないと言っておられるかのようです。弟子たちには「五つのパンと二匹の魚」しかありません。彼らは自分の現実に絶望的になったでしょう。しかし、この不可能という現実をイエスに返すとき、五つのパンと二匹の魚で、すべての人が満腹することができたのです。もちろんパンと魚が増えていなければ満腹するはずがないので増えたのでしょう。でも、「増えた」という言葉はありません。むしろ「与える」という語に焦点があるようです。自分の力だけに頼らず、イエスに委ねるとき、「五つのパンと二匹の魚」は五千人を満たして、なお余りあるものでした。
イエスの手を通して「与え続けられる」パンの豊かさに目を向けてみましょう。「神の国」は、人間の貧しい現実が豊かに変えられるところにあるのです。

Ⅱヨハネ6・26-35 51-58
「わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをおつかわしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降ってきたパンである。先祖が食べたのに死んでしまったような者とは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

イエスが5つのパンと2匹の魚を5千人以上の群集に分け与えた出来事を契機に、パンをめぐるイエスと人々の論争が始まります。「天から降ってきたパン」、このパンを食べるなら永遠に生きる」と、イエスが「パン」であることが一貫して述べられています。イエスの与えるパンとはイエスの「血と肉」、つまりイエスさまそのものです。それを食べて飲むことが永遠の命への道であるとはっきり言われます。イエスの血と肉を「食べる」ことに焦点がおかれているのです。
イエスはご自分を食べられる存在としてお与えになりました。この神秘はイエスの誕生の時すでに示されています。生まれてすぐ、家畜が餌を食べる飼い葉桶に寝かされたイエスの姿を思い出してみましょう。十字架の上で砕かれ、御自分をいのちのパンとして差し出されるイエスの生涯が、この飼い葉桶の幼子の姿の中に凝縮して映し出されているのです。
今、ご聖体の形で、永遠の命の源泉となる「まことの食べ物」を食べさせていただくとき、私たちはイエスの内に入れていただき、イエスもまた私たちの内に留まって下さいます。この恵みに与る私たちは、すでに新たな命を生き始めているといえるのではないでしょうか。

杉原法子(6月20日「聖体礼拝」での話)

休講のお知らせ

すでにお知らせしましたように、6月23日(日)は堅信式が行われます。
そのため、6月23日(日)、および26日(水)は、休講となります。