1.心に響いたことや印象に残ったことは何でしたか?
(1)人間は、過ちを犯してしまっても、それを心から悔いて、反省すれば、神様の寛大な心で、赦される。
(2)父のそばにいながら、父と真の交わりが出来ていなかった兄もまた、父親にとって失われた存在であったということです。放蕩息子の話を聞いて、先に思い浮かぶのは父のもとを離れ遠い国に行った弟ですが、物理的な距離だけでなく、物理的に父のそばにいても心を通わすことがなかった、心の遠かった兄もまた放蕩息子と同じような存在であったのかなぁと感じました。
また、「見失った一匹の羊」の話で、羊飼いの気持ちになるとどういう気持ちで探しているのか、見失った羊の気持ちはどんなものなのかという点です。「見失った」という言葉がギリシャ語において、「滅びる」という意味があることを初めて知りました。

(3)放蕩息子の話しで、生前に財産をもらい、家を勝手に出て行って、やりたい放題の息子が、お金も食べる物がなくなってしまい、再び、家に助けを求めて、戻った時の父の喜びようと赦す姿が(怒りもしない姿が)、神様を描写されているというので、神様の計りしれない寛大さに、驚いてしまいます。
(4)「放蕩息子」の中での登場している父親は、出て行って帰ってきた息子に対して怒ることもせず、寛大に家に向かえ入れる息子に対する父親の「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と言っている父親像に対して私は、印象に残りました。



2.あなたはどんなメッセージや呼びかけを受けましたか?
(1)「見失った羊」の中での解釈文のメッセージを読んで、私たちの羊飼いは、今も、いなくなった一匹の羊を探し求めて歩き回り、一人の人の名前を呼び、どんな危険な所にも足を踏み入れ、自分の命の危険も顧みず命がけで探し出してくださっているということに対して私は、なかなか真似が出来ないことだと思い、凄いことだと思いました。
(2)「放蕩息子」の中での登場している父親は、出て行って帰ってきた息子に対して怒ることもせず、寛大に家に向かえ入れる息子に対する父親の「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と言っている父親像に対して私は、印象に残りました。
(3)神さまの愛に応えたい。
(4)無償の愛で周囲の人に接すること、赦すことを心掛けたいと思いました。また自分自身も神さまから愛されている存在であるということを再認識しました。そして私は日頃わがままな心を持ってしまいがちですが、その愛を信じることを忘れてはならないと思いました。また命を捨てる覚悟で見失った羊を命がけで探し回られた神さまの愛について、もっと深く考えたいと感じました。


杉原の返事
「神さまの愛に応えたい」とのお返事は最高です!!
 羊飼いは日本人にはあまりなじみがありませんが、ユダヤでは迷った羊をどこまでも探す牧者の姿は容易に想像が出来たでしょう。もちろん、イエスさまは、今、日本で、「いなくなった羊、迷える羊」を求め続けていらっしゃいます。
ヨハネ14:18『私はあなた方を孤児にしておかない』と書かれています。 イエスさまは、誰一人も、もれなく救いたいと願って おられるのですね。
 「神さまの愛に応える」生き方とは、このイエスさまにどこまでもついていくことではないでしょうか?
「独り子をお与えになるほど」人間を愛して下さった神さまの愛を祈りの中でゆっくり味わってみて下さい。 現在の日本を考えてみるとき、苦しみの中で真実を求めてさまよう人々のなんと多いことでしょうか?その人達にもこのイエスの、神さまの愛を伝えたいですね!
日本人は神をぼんやりと信じていますが、神が人となって歴史の中に生きた、ナザレのイエスが神であることを信じるのは難しいようです。
 信仰は神さまからただでいただく恵みなのですね。復活後も、今も私たちと共に、わたしたちの中で生きておられるこの方と、パーソナルな関わりを深めていただけますように!!

3.よく理解できない点や疑問点があれば書いてください。
(1)放蕩息子の話しに出てくる、真面目に働き、父と住んでいる長男が弟が帰ってきた時、父が弟のために盛大な宴会を開くことに対して、嫉妬や怒りを感じてしまう気持ちがわかりました。当時のたとえ話として、罪人を赦す神様(父)と対照的に兄を罪人を切り捨てたファリサイ派の人々として描いているのであれば、理解できないことはないのですが、読んだとき、なぜ、勤勉に働いている兄よりも、弟(放蕩息子)の方を手厚く、されるのか、違和感をもちました。自分勝手なことをせず、一生懸命、働いている兄に同情してしまいました。
(2)質問1.「イエス様と神様は、同じですか」
キリスト教の核心を突いた質問です。第1課に書きましたが、イエス・キリストは、『神のいつくしみのみ顔』です。 神さまは、人間にご自分を顕すために、御子イエス・キリストを送られました。イエスの使命は、言葉、行い、生き方を通して、神とは誰であるか を伝えることでした。 私たちを無条件に受け入れ愛して下さる神さまを、自らの生き方で示してくださったのです。
 神御自分が人間へ歩み寄り、人の力では知り得ないことを教え示すことを「啓示」と言います。キリスト教の他宗教との決定的な違いがここにあります。