援助マリア修道会
Sr 杉原法子

  今日は「聖霊降臨」の祭日、そしてイグナチオ教会献堂記念の教会祭、おめでとうございます。六週間にわたる復活節の豊かな典礼を生きてきて、その頂点に立つ今日、聖霊のあふれる恵みのもとで、こうして皆さまとお祈りの時間が持てますことを嬉しく思います。イグナチオ教会では2030年を目指す刷新の一歩が踏み出されました。その第一歩が「祈りを深める」ということはとても意義があると思います。皆さんは、祈りに結ばれた共同体の一員であり、宣教は祈りを基にして初めて実を結ぶからです。

  復活・昇天・聖霊降臨への歩みは、主の受難と死から始まった一連の出来事でした。世界に神の「無償の愛」が示されたこの出来事を復活秘儀(神秘)と呼びます。この出来事は歴史の中の一回限りの出来事ではなく、2000年を超える今日まで連綿として続いています。時代を超え、国を超えて、今も地球上で絶えることなく「再現」されています。それがミサでありご聖体の秘跡です。

  ヨハネ13章の冒頭に、イエスは「極みまで愛された」とあります。人間同士の場合を考えてみても、お互いが真に愛し合うとき、いつまでも一緒にいたいと思うのが自然の感情です。イエスさまも、最後の別れに臨んで、愛しておられた弟子たちといつまでも共に居たい、そして後世に生きるわたしたちのためにも、この地に留まりたいと、切なる望みを抱かれたに違いありません。この極みない愛が、ご聖体という、とてつもなく不思議なことを可能にしたのでした。神であるイエス・キリストが、私たち人間のための食べ物となって、私たちの内に永遠に留まることを決断されたのです。

  今日では、信徒たちは毎日でもご聖体をいただき、キリストご自身と一致することができます。いつでもだれでも自由にいただけると思っているこの聖体拝領は、1960年のバチカン公会議前までは自由ではありませんでした。私どもの修道院でも、年配のシスターたちは、修道院長に毎晩聖体拝領の許可を願っていたそうです。記録を読むと、年に何回とか、月に何回とかいうふうに、人によっても許される回数は違っていたようですが、聖体拝領は許可のもとで行われていたことが分かります。

  聖体拝領がしばしばできない信徒たちの間に、「ご聖体の前で祈り、イエスと一致したい。イエスと出会って渇きを癒されたい」という強い望みが生まれ、聖体礼拝の出発点となりました。こうして始まった聖体礼拝は次第に発展し、一般信徒の間に大きな広がりを見せるのは13世紀に入ってからです。聖体の祝日が定められたのが1264年です。14世紀になると、顕示台による聖体顕示の慣習が確立しました。教会や修道院では祭壇にご聖体を顕示し、その前で聖体礼拝をし、賛美がささげられるようになりました。この聖体礼拝が教会の歴史の中で発展し、今日まで大切に受け継がれているのです。パリのモンマルトル教会やマニラのセント・ジョセフ教会では、終日聖体顕示が行われています。多くの人々が三々五々礼拝に訪れて、真剣に祈っていた姿が印象的でした。

  創立者マリ・テレーズ・ド・スビランは、1865年創立に当たり、シスターたちに次のような講話をしました。「不熱心だったり、生ぬるい修道者であるより、火事で焼け死ぬほうがましです」と。ちょうどその夜、はからずも修道院は火事に見舞われ、建物は全壊しました。しかし、シスターたちも与っていた子供たちも全員無事に救出されました。当時の地方新聞はこれを奇跡と報じました。創立者は、この不思議な出来事に神の手を読み取り、修道会の中心に聖体を据えたのです。その日から聖体の永久礼拝が始まりました。「『苦しみと積極的献身によって救いのために働かれる主キリストと一致して、その贖いの業に参与したい』という大きな望みは、日常の聖体礼拝を通して果たされます」と、彼女はその手記に書いています。

  それ以来、聖体礼拝は援助マリア会の大切な使命の一つになりました。時代の流れや場所によっては、永久礼拝は困難になっていきましたが、日中できるだけ長く礼拝をつないでいく努力を続けています。世の救い為に自らを御父に捧げられたキリストの贖いに参与するため、世界のあらゆる苦しみや痛みを聖体の前に運び、彼らの救いを祈ります。

  こうして日々ご聖体におられる主の奉献に与り、砕かれて食べられる存在になること、自分の時間や能力などを差し出し、そこから他者のために生きる力を汲みます。日常生活の中での絶え間ない祈りは、この望みを現実に生きる力と勇気を与えてくれます。

  聖体礼拝の意義を2点にまとめてみます。一つは、贖いの秘儀に与ることです。聖体を礼拝しながら、イエスが全生涯を通して果たされた贖いの神秘を思い起こします。ご聖体の中にイエスの十字架をみつめ、わたしたち人類の罪を命懸けで贖ってくださった主の苦しみに自分も与らせていただき、現代の苦しむ世界のために祈ることです。その意味では、聖体礼拝そのものがミッションの役割を持っています。主のみ前に、キリストを知らない人、キリストから遠ざかっているすべての人を差し出し、彼らのために祈る、個人的な主との出会いが社会的なミッションへと広がっていくのです。

  二つめは奉献です。聖体礼拝の間、わたしたちの存在自体を、聖体の形のもとに現存されるキリストに捧げます。イエスさまのお望みのようにわたしを変えてくださいと、自らを明け渡すのです。福者マリー・テレーズは、会憲の中に次のように書いています。「愛の秘跡である聖体に絶えず眼を注ぐなら、どこまで自分に死に、神と人々に自分を与えなければならないかを思い起こさずにはいられないでしょう」。

  聖体礼拝の沈黙の中でキリストに近くあることは、同時代を生きる人々を遠ざけることではなく、人々の喜びや悲しみに注意深くあることです。私たちは、この聖体礼拝を通して、実際に大きな世界に出かけて行くことができます。その時間だけは、全世界を抱くほどに心を大きく広げましょう。

  ヨハネ福音書17章に、「すべての人を一つにしてください」と願う、イエスの最期の祈りがあります。争いの絶えない世界で分裂の痛みの中にある人々を、愛に渇いて苦しんでいる人々を主の前に運びましょう。そしてわたしたちが彼らと連帯を生きることができるよう祈り、世界がキリストのもとに、一致できる日を待ち望みましょう。

  ご自分の命を与えてくださる決定的な賜物であるご聖体を礼拝すること。そこから、私たちは、溢れるほどの恵みをいただきます。「ご聖体は、すべてが流れ出る泉であり、全てがそこに帰っていく場である」からです。

 

 


*このメッセージは2017年6月4日(日)に聖イグナチオ教会で行われた献堂記念教会祭の祈りの集い「聖体礼拝」での講話内容を原文のまま掲載いたしました。