38年前、教皇ヨハネ・パウロ2世が日本を訪問されたとき広島で出された『平和アピール』の中で「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われました。平和は単なる願望ではなく具体的な行動でなければなりません。」教皇のこの呼びかけに応えて、日本カトリック司教協議会は「日本カトリック平和旬間」を制定しました。それ以来、広島に原爆が投下された毎年8月6日より15日までの10日間を特別に平和のために捧げられた期間として、各教区で平和のための祈りとともに平和のためのさまざまな企画が行われています。平和のために祈り、日夜努力を払っておられる教皇さまと心を合わせ、また日本の司教団の意向に合わせて、平和への道を共に祈ってまいりましょう。

人は生まれて以来自分と周囲の間に一つ一つ橋を架け、人と物とのつながりを深め、それを自分の世界として生きていきます。
この橋が架からなかったり、架けても橋としての機能を果たさなかったり、時として橋を架ける意志を失ったりしたとき、人間は孤立し平和を失います。このつながりが断絶したところに、先の京都アニメの放火事件や川崎での無差別殺人事件など悲しい出来事が起こってしまいました。
人と人、人とモノの「つながり」は、平和の原点と言えるでしょう。

イエス・キリストの生き方は橋を架ける生き方であったと言えます。マリアさまとヨゼフさまという両親に結ばれ、ユダヤの地域社会と繫がりの中で成長されました。30歳頃、公の生活に出られてからのイエスさまの生き方で目立つのは食事です。徴税人や罪人とレッテルを貼られている人たちと食事をしながら、イエスさまは多くの人々とつながり、福音を人々に伝えられたのです。その関わりの中で、「神さまの目に私たち一人ひとりの存在がかけがえなく貴い」ということでした。人は皆自分自身も、周りの人も、一人ひとりが替わりがきかない存在なのです。このことを私たちがしっかりと心に刻み込むところから少しずつ平和が創り出されてゆくのではないでしょうか。

キリストはわたしたちの平和です。キリストの十字架によって、平和を揺るぎないものにして下さいました。パウロはエフェソの信徒への手紙に書きます。「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。 
聖書はイエス・キリストを《新しい人》と呼んでいます。この《新しい人》の体には、神の目に大切な一人ひとりの存在が刻み込まれています。わたしの存在も、あなたの存在も、すべての人の存在が、刻みつけられています。決して失われてはならない、かけがえのない存在として。この《新しい人》において平和は実現されていきます。
平和旬間にあたり、私たちは、このキリストに繋がれて平和の建設に参与させていただけるよう、人と人との懸け橋となり、つながりの輪を広げていく決意を新たにしましょう。

杉原平和旬間礼拝