杉原法子

新受洗者の皆さま
洗礼おめでとうございます!
信仰の絆に結ばれて、この喜びを
多くの人々に伝えていきましょう。

[空の墓]
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ごらんなさい。お納めした場所である。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言っておられたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16・1~7)

どの福音もこの場面を取り上げていますが、マルコはとくに「空の墓」を強調しています。主イエスの遺体はどこへいってしまったのだろう、と墓の中を捜しに来た女性たちに対して、「白い長い衣を着た若者」は答えます。「あの方は…ここにはおられない」十字架につけられ死んで墓に葬られた主イエス、そのお方の墓は空で、もはやその暗闇にはいらっしゃらないというのです。

初代教会の人々は、キリストの墓がどこにあったかということを早々に忘れてしまったそうです。なぜなら、生きた方を死者の中に尋ねる必要はなかったからでしょう。復活したイエスの存在は、40日に限られた経験ではなく、時空を超えた体験でした。イエスは、死人の中にはおられず、時間と空間を超越して生きておられる、血肉を超えた存在でおられるのです。歴史的人物であるというだけでなく、今日の私たちに関わる存在なのです。私達が一生懸命物事の「死」の側面、やがては当然なくなるはずのこの世の事柄だけを見つめていたら、そこに主の姿を見つけだすことはできないと聖書は語っています。そして、聖書はガリラヤを、主との出会いの原点を指し示すのです。

神への愛と人々への愛を貫いて生きられたイエス・キリストが、今も、私たちとの愛の交わりを通して生き、常に私たちと共にいてくださるという信仰。ここに、イエスの「復活」の真の意味があるように思います。