7/4(土)9:00-に配信されたイグナチオ教会のオンライン入門講座の原稿を掲載します。


2020年

「人生の目的」

6月27日 
イグナチオ教会

 

今日のテーマは、「人生の目的」という大変大きなものですが、それを考える前に、聖書では人間をどのようなものとしてとらえているのか、詩編を見てみましょう。
旧約聖書の中におさめられている詩編は、人間のあらゆる経験、人生に伴うあらゆる種類の感情が表現されており、わたしたちが神に向かい、神とかかわるための祈りです。魂と信仰の表現であるともいえます。

人間の尊さをうたった詩編をまず朗読します。(朗読 須賀さん)
8:5 そのあなたがみ心に留めてくださるとは/人間は何者なのでしょう。人の子は何者なのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 
8:6 神にわずかに劣るもとして人を作り/ なお、栄光と威光を冠としていただかせ、

詩編139 ダビデの賛歌です。               
139-1主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。
139-2すわるのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139-3歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。
139-4わたしの舌がまだ一言も語らぬさきに、主よ、あなたは全てを知っておられる。
139-5前からも後ろからもわたしを囲み、み手をわたしのうえにおいてくださる。
139-6その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。
139-7どこへ行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
139-8天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、黄泉に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
139-9曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
139-10あなたはそこにいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
139-11わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
139-12闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も光も変わるところがない。
139-13あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
139-14わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。

このように、詩編139は、人間のそばに常に留まり、すべてを知り、何をも見逃すことがない神を、実に明快な美しさと強い感動をもって讃えています。
わたしの故郷は中国地方の田舎で、田んぼや川や池のある田園がわたしの原風景です。
ごく普通の家庭に生まれ、家の中に仏壇と神棚がある家で育ちました。バスで20分行
くと福山という町に出ます。バスが峠を越えて街に差し掛かると左手の丘に、当時
は大変珍しい洋館の学校が姿を現します。それが宣教師によって建てられたミッション
スクールです。12歳で私はこのカトリック学校に入学しました。カトリック学校を選
んだのではなく、国立大学付属中学に落第したからです。しかし、今、私はここに神の
手を感じています。
最初の宗教の授業で、まだ日本語がよくできないフランス人のシスターが、黒板にひら
かなとカタカナ交じりの字で、人は「神から出て神に帰る」と書かれた文字が強く印象
に残りました。
これが、わたしのキリスト教を学ぶ出発点となりました。人は「神から出て神に帰る」、まさにこれこそ我々の人生であり、人生の目的ではないでしょうか!
わたしを生み育てここまで導いてくれた両親の背後に、神さまの導きの手を感じ、その愛に触れた時から、自分の人生は変わりました。生涯を神様にお捧げする決意のもと洗礼を受けました。両親は積極的に反対はしませんでしたが、よくわからない道に入っていく娘の将来をきっと不安に思っていたに違いありません。特に、父は末期がんを患っていましたから、死を超えた世界を感じていたのかもしれません。黙って受け入れてくれた父はその2年後に亡くなりました。
その後は、見えない一本のひもに導かれて今日まで歩んできたように思います。
今から40年前、英国での研修を終え、マニラのアテネオ大学のキャンパスにある、
EAPIという東南アジア司牧研究所で6か月のコースに加わりました。メンバーは男
女合わせて80名、国籍を異にする宣教師たち、司祭、修道者、一般信徒の全寮制の
共同体でしたから、実に豊かな体験になりました。東南アジアという共通の土壌で、
どのようにキリストの福音を効果的に宣教できるかについての講義や分かち合い、マ
ニラ周辺の地域に出かけていき、体験を通して学ぶというプログラムでした。
中でも最も大きな体験となったのは、マザーテレサとの出会いでした。マザーテレサ
の講義に与ることが出来たのです。ロンドンを発つその数か月前、1975年8月、英
国の新聞がマザーテレサを「現代の聖女」という見出しで、大々的に紹介した直後の
ことでした。
マザーテレサは、マケドニアの出身で、12歳でロレット修道会に入会し、19歳でインドに派遣され、修道会の経営する学校で教職に就いておられました。36歳、黙想会への旅の途中電車の中で、「すべてを捨ててスラム街へ行き、貧しい人の中にいる私に仕えなさい」という神の招きを聞き、サリーを身に着けわずかなお金(5ルピー、150円)をもってインドへ向かわれたそうです。1950年、貧しい人の中でも最も貧しい人に仕えるために「神の国の宣教者会」設立されました。そのような方に直接にお会いできるというのですから、だれもがその日を心待ちました。裸足にサンダル、いつものサリー姿のマザーでしたが、お顔は確かに静かな輝きと言いますか聖なる方でした。
彼女の講演は実にシンプルなものでした。「God loves you」このことばの繰り返しでし
た。マザーが伝えたかったことは、一つだけ、「神は愛」でいらっしゃるというメッセ
ージでした。私は、その後、マニラ郊外に設立された修道院にマザーを尋ねました。
マザーは、私をじっと見つめて、日本のカルカッタで働きなさいと言われました。わた
しはその意味がよくわからず、日本のカルカッタはどこですかと、愚かな質問をしまし
た。マザーの答えは、日本は世界で最も赤ちゃんの堕胎が多い国だと言われたのです。
あなたはそのような日本に帰れと!そのマザーの言葉は、わたしの心に突き刺さりまし
た。確かに、日本は世界で最も赤ちゃんの堕胎が多い国です。生まれてこない赤ちゃん
(エンブリオ)、働く人の4割が「非正規労働者」家庭を養い子どもを育てていくこと
さえ困難な状況にあります。また多くの人は過重労働に疲れた人。高齢者の介護の問題、
病気や障害を持つ人々。私たちの周りには支援を必要としている人が多いのです。
帰国後、派遣されたのは、学校という宣教の場でした。将来の日本を背負う生徒たちに教科を通して、また教科を超えて、マザーが繰り返し話された「あなた愛しておられる神さまの存在」を伝えることがわたしの使命となりました。マザーテレサが繰り返し語られた神の愛を伝え、「他者のために生きる」ことを語りました。おそらく、神と人々に仕えて生きる道は万人にとっての人生の目的であろうと思います。

現在、新型コロナ感染症拡大がパンデミックとなって、この美しい世界を震撼させて
います。人類はこれからどこに向かうのか、世界はどう変わるのか、「パンデミック
が変える世界」と題して行われたNHKの対談で、アメリカの国際政治学者、イアン・
ブレマー氏は、このパンデミックによって、人と人、また国と国との間にも不信感が
増加し、世界は不安定になるだろうと言っています。特に発展途上国での感染拡大の
問題、さらに格差の増大が生じるのではないかという危機感を示しています。他方、
イスラエルの歴史学者ユバル・ノア・ハラリさんの話も興味深く聴きました。政府と
市民の双方による協力の必要、市民が信頼できる政府の構築などについて論じられて
いました。フランスの経済学者で思想家のジャック・アタリさんは10年前に『危機
とサバイバル』でこのパンデミックを予想し、1918年~1920年のスペイン風邪のと
きと同じ問題が起こりかねないと警告し、連帯と利他主義の必要を訴えています。
注目したいのは、他者のために生きることが人間の本質であり、協力は競争よりも価
値があると述べ、利他主義は自分を益する行為であると話されたことです。特にこれ
から、生きるために必要な食糧、医療、教育、文化、情報、研究、イノベーション、
デジタルなどの産業を指摘していました。それは経済至上主義というよりも「命」
を守る」ための産業ということです。また、行動規範として「次世代の利益」を考えて
の行動を挙げています。それは「命」は単に現在生きている私たちだけの問題ではなく、
次世代の命が守られ、豊かにされてこその「命」だという意味でしょう。都市封鎖や多
数の死者を出しているパンデミック、人類はいまグローバルな危機に直面し、大きなチ
ャレンジを突き付けられています。今回のパンデミックという危機のおかげで、世界中
の人間は自分のいのちのはかなさを自覚し、「生きる」ことの意義についてもっと考え
るようになったのではないでしょうか。いま生きている私たちは全員いずれ死にます。
束の間の存在であることを認めざるを得ません。私たち人類には「連帯と協力」が必要
であり、「他者のために生きる」ことの重要性を教えてくれているように思います。
「他者のために生きる」という人間の本質に立ち戻る機会を与えてくれる点では、この
パンデミックに積極的な意味を見出すことができます。
私どもの修道会がマニラにあるので、フィリッピンの情況を尋ねてみました。マニラ
ではコミュニティ隔離政策がとられ、少し前までは空の外国便はもちろん国内便もストップ、市外への移動禁止、夜8時から朝5時半まで夜間外出禁止になっていたそうです。食料・医薬品などの生活必需品と病院・通信・金融・電気水道などライフラインを除いて営業停止と、厳しい規制が敷かれていました。
マニラのケソンシティに私ども援助マリア会の修道院があるのですが、その近くにマ
ラヤというスラム街があります。もう何年も前になりますが、ときどきそこを訪問して子供たちと聖書の勉強をしていました。そのときの映像です。彼らの生活環境は決して快適なものではありません。車道から脇道に入ると、狭い路地の奥にこの映像にあるような生活空間が開かれます。ベニヤ板をつなぎ合わせて造った家と家が重なるように軒を並べています。一間しかない小さな家に、台所と居間兼用の部屋に両親と5,6人の子供たちが文字通り額を寄せ合って生きています。外から見れば、およそ人間的とも思われないような厳しい環境の中で生きているマラヤの人々は、このパンデミックをどのように乗り越えたのでしょうか。
彼らは地域のリーダーの指導のもと、家族のいのちと健康を守るために、原則は在宅、
必要以外の外出を避けることを厳守しました。仕事のある人は休んで、仕事のない人が大半ですが、彼らは家族と共に過ごし、祈り、それによって家族の絆が強くなったそうです。ここに住む人々はどんな不便や困難をも乗り越え、表情は明るく、貧しさからくる悲壮感はみじんも見られません。どんなときにも希望を失わず、明るく生きるすべを知っているのです。「彼らの人生」にはどんな秘密があるのでしょうか。
それは、常に家族や仲間のことを想い、わずかなものを分かち合って生きる、彼らの心のやさしさのあふれではないかと思います。パン一つもらった少年は決して一人では食べません。家族に持ち帰って兄弟と分かち合うのです。彼らは「他者のために生きる」ことを体験から学び、知っています。キリストの教えの中核にある「愛」を自然に生きているように思います。

ルカ10章「善きサマリア人」のたとえ話を思い出してみましょう。(聖書朗読ルカ10:25-37)
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
「私の隣人とは誰ですか?」と問うファリサイ派や律法学者たちに、イエスはこのたとえ話
をあげて「誰がその人の隣人となったか?」と、問い返されます。自分が愛を向ける対象が隣人として「ある」のではなく、助けを必要としている人に出会ったとき自分が隣人に「なる」ように招かれています。自分を守る壁を打ち破って出て行き、他者に向かい合うことが神の愛に応える生き方なのです。ルカ福音書の全体を支える柱は、この「愛すること」と「与えること」です。

また、彼女の生き方の原動力になったと言われるマタイ25章、そこでイエスは言われます。

31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 
42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 
 すると「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。他者のためにしたことは神に対してしたことであると、イエスは断言されます。

イエスの日常の風景から拾い上げられたたとえ話です。羊と山羊とにより分けて、裁きを行われます。羊が祝福された者たち、山羊がのろわれた者たちで、人間はこの2つの種類に分けられるというのですね。パレスチナでは山羊と羊を分けて飼っていました。ヤギは寒さを嫌うので洞窟や小屋に、羊は新鮮な空気を必要とするので戸外の囲いに入れて飼っていたようです。山羊と羊の違いは気質の違いにあるようです。羊は温厚で素直な性格を持ち、草を食べ、群れを成す家畜で人間に依存し、山羊は気質が荒く、仲間と喧嘩したり逃げ出したりする気の早い生き物で雑草を好んで食べます。
左より右が優位というのはどういう根拠があるのか、よくはわかりませんが、聖書ではいろいろなところに右が優位だということが記されています。エジプト、メソポタミアの文明の影響かもしれません。バビロニアやアッシリアの神ベルは、右手に太陽、左手に月をいただいています。
「ほほえみの教皇」と呼ばれ、在位一か月で亡くなられたヨハネ・パウロ1世が、まだ
大司教でいらっしゃったとき「素晴らしい人々」という本を著しておられます。
 アイルランド人の男性が突然亡くなり、神様の審判の席に出廷しました。自分の人生
はどう見ても失敗だったと彼は非常に不安でした。待つ間、審判の様子をじっと見守っ
ていました。「飢えたいたときに・・・・・」「渇いていたときに・・・・」「牢獄にい
たときに・・」いちいち自分に当てはめてみて、ますます不安が募ります。彼の番にな
ったとき、キリストがファイルを繰られるのを見ながら、震えて待っていました。
「あまり記録はないね。それでも、私が悲しく、落ち込み、参っていたとき、あなたは
やってきて、冗談を言っては笑わせ、おかげで私は元気が出た。天国へ行きなさい」
「この小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」                          
神は、そばにいる貧しい恰好をした人、立派な格好をした人、それぞれの人間を通して、ご自分の姿を現わされる、つまり、すべての人の内に神さまが生きておられることを表現しています。人間とは神様の命を分け与えられた存在であるという、この人間の本質を見抜く目が大切なのですね。
パウロはエフェゾ人への手紙で、右の人々に向かってこう言っています。   
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」
ヤコブは左の人々に向かってこうも言っています。
「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」
  
「聖書」は、人間の心の醜い部分を隠さず表現し、徹底的に洗い出しています。それにもかかわらず、人間の本質は神さまの生き写しであることを一貫して説いているのです。多くの場合、地位や名誉、財産または才能などのある人には手厚くもてなそうとし、貧しい人みすぼらしい格好をした人を避けてしまう傾向があります。心がそのように動いてしまうのは人間の深い業のようなもの。そういう心の醜さが誰の心にもあるということを認めざるを得ません。人間というものはこんなにも業が深く、弱くて醜いものなのかと思い知らされます。しかし、大事なことは、どんなに弱く醜い存在であっても、聖書が何千年と読み継がれ、人々の心を捉えて話さない理由はここにあるのです

大江健三郎さんがノーベル文学賞を受けられた時の記念講演で、人間は、他者にどれだけ開かれていたかによって、その人の品性を図ることができる、と言われたことが印象に残っています。いいかえれば、神と人々に仕えて生きる道こそが、自己実現のへ道であり、「人生の目的」であるともいえるのではないでしょうか!
聖イグナチオ・デ・ロヨラは「霊操」という黙想の指導書の中で、これまで述べてきたことを、次のようにまとめています。「私たち人間が与えられた能力を生かして他者のために生き、自分の使命を全うすることが人生の目的であり、神への賛美である」と。
ヨハネ3章16節には、「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と書かれています。神さまの悲願はすべての人が救われることです。一人残さず救いたいという神の願いを私たちの願いとして生き、その働きに参与させていただくこと、ここに、わたしたちの人生の究極的な目的があるのではないでしょうか。
先月教会は「三位一体」の祝日を祝いました。今こそ、世界中の人が、父と子と聖霊
の愛の交わりに招かれています。互いの交わりの中で愛を生きるよう呼ばれているように思います。イエス・キリストの生きた愛は「アガぺ」の愛と呼ばれる全く無償の愛です。イエスさまは十字架という代価を払ってこの愛を獲得してくださいました。神の似姿として創造されたわたしたちは、神と他者のために生きるために、世界の問題に向き合っていけるよう、この愛に招かれています。